プロフィールの書き方

僕は仕事柄プロフィールを書くことがとても多いです。
小さいころから履歴書を書くのがとても嫌だったのにこんなことになるとは、、、
ただ海外での経験はとても勉強になりました。

自分はカナダでパン屋さんで働いておりました。
ですので、この仕事に就く前に海外版履歴書を書きました、いわゆるレジュメですね。

カナダでは日本と違っていわゆる履歴書のようなきちんとした書式がありません。
ですので、とにかく自分が雇ってもらえるように工夫をしなければいけません。
特に重要なのは自分のアピールです!

僕は典型的な日本人のところがあるので、手伝ってくれる方が
「坪井さんの長所ってなんですか?」
と、聞かれても
「えーーっと、そうですね、、、元気なところですかね?」
と、もう15歳の可憐な少女か!というくらいモジモジです。
髭面ですが、、、

でもそれはカナダでは全く通用しません。
超積極的に、「俺はこんなすごくていいやつなんだ、お前はこんな俺を雇わないの?いったい何なの?」
という勢いで書かなきゃいけません。
とにかく自己アピール!
僕を飾るための形容詞・副詞が英語でなかなかでなくて「俺の中の形容詞よ、全て出てこい!」と叫んでいた相談にのってくれた方の様子が今でも思い出されます。

またスウェーデンの学校の試験に出す自己PRを書くときもとても勉強になりました。
この時は僕の書いた英文をイギリスの方が見てくれました。
その中の一か所、「18歳でドラムを始めたけれど、すぐに演奏の仕事をもらうようになる」というように書いておりました。
僕は18歳で始めたという事実と、すぐに仕事をできるようになってすごいんだぞアピールのつもりでした。
何がいけないと思います?

これを英文で書いた時に僕は「始めたけれど」のところで「but」を使いました。
それを代えようと。
Butやthoughなどのネガティブワードはこういう文章の時は使わないようにするのよ、と教えてくれました。
ですので英語で「…始めた、しかしすぐに仕事…」を「…始めた、そしてすぐに仕事…」に代えました。

これらのことは僕の個人的な経験なので、その国がと一概には言えないと思いますが、とっても勉強になりました。
このように海外の自己紹介を経験することで思ったことがあります。

僕らはよく文字数を制限されてプロフィールを送ります。
ですので長いプロフィールから抽出しなければいけないんです。
そこで日本の方のプロフィールでよく目にするのが、共演履歴・有名場所での演奏履歴・何々賞受賞などです。
もちろんこれらはとてもアピールになりますし、これらを通してどんな演奏者かはうっすら分かります。
でも僕は少し思ってしまいます、「あなたはどんな人なの?」

僕の共演者でデンマーク人の音楽家がいて、必要があったのでプロフィールを送ってもらいました。
彼は日本ではほとんど無名に近いですが、なんと世界はもちろん日本の若手にも大人気のニューヨークでバリバリに活躍してるミュージシャンに雇われ、ヨーロッパツアーをしています。
前作にはその人たちと録音してます。
しかもいろんな世界的なフェスに出演しています。
しかし共演履歴やフェスの参加は書いておらず、彼はどういうことをしてきて、どういう音楽表現を現在しているかが書かれておりました。
カッコイイと思いました。

僕は昔から大学名は聞くけど、学部を聞かないのはどうしてだろうと思っていました。
「慶応すごいね」「東大、むちゃくちゃ頭いいじゃん!」
違いますよね、慶応・東大で何をしたの?
大手企業であろうがなかろうが、あなたは何をしてて何を目指してるの?
そこが重要だと思います。

僕は大学で教育学部にいたけれど、音楽家になりたくて練習ばかりで中退し、児童相談所やサポート校・地方のド田舎の医院で働いた経験で音楽の可能性に気づき、視野を広げるため海外修行に行き、帰国後ジャンルを超えた音楽を目指しながら、芸術と教育・福祉との関わりを模索しています。

これじゃだめですかね?

学園祭の思い出

僕は中学時代から音楽家を目指していましたが、一瞬演劇を目指したいと思ったことがあります。

僕の学校は男子校だったのもあり、体育祭・学園祭の熱の入れようが半端でありませんでした。
三日間ある学園祭は、誰がおもしろいかが、かなり高い価値基準となっておりましたが、学園祭の最高学年による演劇もとても大事にされておりました。

最後の学園祭準備もそろそろ始まるかなとなっていたある日、学年トップクラスの成績の2人が僕に話しかけてきました。

「坪井くん、演劇に参加しない?」

驚きました!
当時僕は学校で、成績はもちろん下の下でいわゆる落ちこぼれの不良と位置づけられてたと思います。
つまり彼らとはほとんど接点がなく、授業では茶化してうるさいだけですし、ガラもよくない。
むしろ彼らのような人たちに嫌われてると思っていました。

話を聞いてみると、二人が今回の脚本をオリジナルでつくって、その中にぜひ坪井にやってほしい役があると。
僕の在籍した四年間、演劇は映画や小説を脚本にしてやったものばかりでしたが、今回は彼らのオリジナル。
並々ならぬ情熱をもって挑んでいるものに僕を指名してくれたのです。
本当にうれしかったです。

内容は、過去と空想を行き来する農民ゴローの権力に立ち向かう話。
僕は空想の方の擬人化された本と、過去の農民の一人二役でした。
本の方の役は、おちゃらけたコメディの役で、農民はまじめな役でした。
農民はそんなにセリフも多くないちょい役ですので、インパクトのある本の役の方で抜擢してくれたんだなと思いました。
当時僕は、(最悪なことに)授業を茶化して笑わすことに情熱を注いでましたので、そのセンスを評価してくれたんだ、まじめな人たちもおもしろいと思ってくれてたんだと喜びました。

さて、学園祭準備が始まりました。
僕は学園祭の他のものにも企画者・出演者として多く携わっておりましたので、大忙し。
でも毎日行われる演劇の練習は新鮮でとても楽しかったです。
協力してくださる先生は、劇団も主宰しており本格的な練習でした。
毎回、発声から入り役作りの仕方、間の大切さなど丁寧に厳しく教えてくれました。

そして、学園祭が始まりました!
学園祭の最初の二日は僕の独壇場です。
毎日、ありとあらゆる企画に出演し、笑いを生むことができ充実しまくってました。

中でもうれしかったのは、男子校のミス岩田(女装コンテスト、どんだけウケるかですね)で僕は携わったのですが、中一からの各学年の子たちの自己PRを一緒に考えその子たちをプロデュースしたのが、ことごとく成功したことでした。
多くの子は出たくないけどみんな押し付けて出てるおとなしい子たちばかりでした。
しかし、彼らなりに考えて持ってきてて、どれもそのままではまずかったので、こうしたらどうかと話し合い一個ずつ改良していったものでした。
その中の子の何人かは、このミス岩田を機にクラスメイトに見直され、クラスでの扱いが変わったそうです。
このように最初の二日で僕は、笑いが価値基準である学園祭で成功をおさめることができました。

さて、最後は演劇。
この演劇は学園祭の締め的な位置にあり、バカ騒ぎだけでなくちゃんとした劇というものの面白さで締める最高の舞台でした。
役者を目指すのもいいなと思っていました。

さて、衣装は本の役では明るく奇抜な感じ。
髪の毛も銀色のスプレーで染め、端をカールさせたおちゃらけた感じ。
農民は江戸時代とかの百姓の感じ。
髪の毛を隠すためにほっかむりをつけました。
演劇にはかなり力がはいっておりますので、衣装もしっかりしてて早着替えのためのアシスタントもついておりました。

さて本番が始まりました。
反応はとてもよかったです。
本のシーンでは、二日間での成功の手伝いもあり、狙った笑いがしっかりハマり大盛り上がり!
農民のシーンでは、この劇のまじめなものがしっかり表現されていてピシッとした空気になります。
この台本のすばらしいのは、おちゃらけた世界にも暗示的なものがあり、主題のまじめなシーンに効いているところです。

そしていよいよクライマックス!
権力に立ち向かっていたゴローは、結局仲間だった農民たちに裏切られます。
代表を差し出せば許すという権力者の言葉に農民たちはゴローを差し出すことに決め、取り囲みます。

農民坪井「俺たちは悪くない!」
シーーーーーン、、、
しっかりと緊張感のある間を持ちます。

そこで事件が起こります。

一番前で見ていた中学生たちがざわざわしだしました。
「あれ、坪井じゃねえ?」
「ああ!坪井だ」

そうです、中学生たちは今まで坪井は本の役だけで農民はやってないと思っていたのです。
舞台は少し離れてますし、ほっかむりをかぶっていたのも合わさって バレてなかったのです。
笑いのシーンとまじめなシーンをビシッと決めてる素晴らしい役者でなく、バレてなかっただけなのです。

その間の後に放たれる劇の最後の言葉でもある自分のセリフ「死んでくれゴローーー!」は観客みんなのざわつきのなか放たれ、暗転。
「ほんとだ、坪井だ!」などのざわつきが止まらない中、予定通り幕は閉じられました。

僕はやはり何かを演じるのは向いていないんだなと思いました。
その何よりの問題は声だとあらためて気づきなおしました。

農民は暗いシーンがほとんどなので、張る系の声でないです。
でも最後のシーンは、農民の搾り出た声、、、張ります。
そうすると僕の高い声は特徴を強く放ちます!!
「俺たちは悪くない!!」by boy soprano
それに中学生たちは気づいたのです!

僕は指名してくれた二人に謝るとともに役者を目指すのをやめました。
僕は、そのままの自分を表現する声を使わないドラムをしようと、、、

はい、みなさま!
坪井の前で「高い」「裏返ってる」禁句です。
坪井の高いはそれが普通で、裏返ってないんです!
それが表なんです!
俺は、わるくない、、、、by boy soprano

キーパーの思い出

前回の投稿から半年たってますね。
ネタはたくさんあるのですが、書く余裕がなかったです。

ところで、自分は小学校4年生からサッカーを始めました。
同級生がすでに2人入っており、1人はすでに5・6年生中心の1部チームに、もう1人は3・4年生中心の2部のキャプテンでした。
僕は入ったばかりですが、少しずつ頭角を現すことができレギュラーにすぐになりました。

そして、5年生の終わりごろにある出来事が起こります。
自分は2部チームを卒業したくらいだったのですが、2部チームのキーパーが試合中に故障をし、たまたま代役で2部の助っ人キーパーを命じられました。
相手は2部といってもかなりの強豪で、もう試合にならないくらいの点差が開いており、半分消化試合だったのですが、いいようにやられまくってるのが悔しくて、僕は意気込んで出ました。

ですので、相手のオフェンスがディフェンスを振り切ってゴールに来る瞬間に僕は飛び出して、ガツンと体全体で敵を止めました。
ベンチからは「おーー!」と歓声が起き、ナイスプレーと大盛り上がりでした。
それで有頂天になった僕は、その後も何度か飛び出しては、体で止め、点を入れさせない活躍をしました。

しかし、最後にとても大事なことが起きました。
ディフェンスを突破するのが楽勝の相手は、このままではいけないと対策を練ったのです。
単純なことです、僕が飛び出して来たら隣にもう一人来させ、パスをしたのです。
見事にやられました。
たまたま敵のパスが乱れ、もたつき焦った敵が、がら空きのゴールへのシュートをミスったおかげで点は取られませんでした。
そして、そのまま試合は終わりました。

失点を防いだ僕には、称賛の嵐。
でも僕の中では最後の1プレー、僕が飛び出したせいで、ゴールががら空きになってしまった、飛び出すのが必ずしも正解でない、が強く残りました。
しかし、監督は僕の勢いの良い飛び出しに注目し、キーパーの素質がある、これからキーパーをしないかと言われました。
そのころ、選ぶ権利など無いと思っていた小学生は、そのままキーパーになります。
疑問をちゃんと解決できないまま。

それからの僕はあの最後の失敗が残ったまま。
ですので、何を教えられてもそこを解決できてないので、全く自信が持てません。
手で持って蹴るキーパーキックが、そんなに飛ばなかったのも自信の無さに拍車をかけました。
試合に出ると失敗を怖れ迷ってばかり、その怖れがさらに失敗を呼んでおりました。

結局、1年かけてどんどんキーパーが嫌になり、最後に一番勇気を振り絞ったのは「キーパーをやめさせてください」を監督に伝えることでした。

この経験はとても役に立っており、特に僕が子どもと接する際に思い出させます。
いったいどこに原因があるのか。
自信をつけるためには何を解決しないといけないのか。
自分が他に注目しすぎ、この子の持っているものを見間違えてないか。
ちゃんと相手の気持ちを聞きだせてるか、などを気をつけさせてくれます。

たぶん、僕は最初の時にあの飛び出しの失敗をちゃんと解決してたら、全然違ったと思います。
僕はキーパーをしていたころ悩んでいるので他でも失敗し、それを怒られていましたが原因はそこにないので、全然改善しませんでした。
最初の小さな疑問がそのあとの悪循環を生み、原因からどんどん遠ざかり、一番重いやめるという手段を選ぶ、ただ飛び出しのポイントを整理すればよかっただけなのに。

この経験のおかげで、児童相談所やサポート校でハッとさせられ、もう一度向き合うことができたと思います。

 

ネパールの光景

自分はインドも行ったのですが、その時にネパールにも行きました。
ネパールで主に行ったところは、カトマンズです。
僕は響きが楽しいので、カトマンドゥー(ドゥ―に気合を入れて発音)と呼びます。
もちろん同時に顔もカトマン・ドゥー!に応じて変化し発音します。

さて、まずネパールに着いて早速街中に出ましたが、インドよりも落ち着いており安心しました。
インドのことはまた後日書きますね。
でも驚いたのは、街中のいたるところに自動小銃?を背負った迷彩の方がいらっしゃいます。
治安はそんなに悪くないそうなのですが、やはりあの姿はドキドキしますね。

街の方々は素朴で優しい方に会うことのほうが断然多く、自分はとても過ごしやすかったです。
物売りの人もそんなにしつこい方もいなく、ありがたかったです。

ネパールで印象的だったのは、いろいろな文化が混ざっていることでした。
特にインド・中国・チベットの文化が混ざっており、とても興味深かったです。
食事もインド料理や中華料理に近いもの、またモモに代表されるチベット料理に近いものなどいろいろありました。
宗教もチベット仏教も入ってきており、ボダナートは自分にまったく馴染みがなかったので驚くことばかりでした。
ちなみにここで買った連結した小さい鐘は、とてもいい音でした。

あ、あとここにはサルがたっくさんいるのですが、人に慣れてて道端で余裕ぶっこきまくってます。
中にはサル同士が毛づくろい?してるのですが、されてるほうが仰向けになり両手両足を思いっきり投げ出してされるがままになっておりました。
僕がトルコでされた光景を思い出し、「この子ももうお嫁にいけないな」と思ったのは言うまでもありませんね。
とりあえず、心の中で手を合わせさっき買った鐘が「チーン」と鳴っておりました。

こんなネパールの旅ですが、一番印象的だったのは火葬場があるバグマティ川。
ここにはヒンドゥ教徒の寺院、パシュパティナートがあります。
僕が行った時にも川岸で火が上がっておりました。
またちょうど寺院のほうでお祭りもしてました。
そして通りにはお土産屋があります。
近くには絵で書いたようなヒンドゥ教徒姿の方がいて、シャッターをきるしぐさを僕にしてきます。
それにつられて写真を撮ったら、お金をとられます。

みなさま、この光景が分かりますでしょうか?
寺院に渡る橋があるのですが、そこから上流側に見えるすぐの建物は死が近い人の施設だそうです。
その建物からも繋がってる階段を降りた川で、子ども達が晴れ渡った空のもとで元気に声をあげ川遊びをしておりました。
そのほんのすぐの所では亡くなった方を嗚咽し泣き崩れながら、死体を川の水で清めてる方たちがいました。
そして橋より下流を見ると勢いよく火が上がってます。
その先では焼け終わり、灰を川に流しています。

かとおもいきや寺ではお祭り、老若男女の参拝人、赤ちゃんを連れた方も多くいました。
上記のように通りにはうさんくさい姿でお金をせびる人、商人、僕ら観光客、喪に入り髪の毛を剃っている最中の方などいろんな方がいます。
いろんな動物もいました。
ありとあらゆるものが、橋から300メートル行かない範囲に凝縮してました。
この光景は、何と言葉にしてよいかわかりません。

これを踏まえて、山の上から見たこの盆地の景色を思い出すと王宮とその外の、かつて海外のヒッピーもラリリながらたむろしていた広場、クマリの伝統なども併せて思い出され、非常に感慨深く思えます。
そして最後に思い出すのが、残念なことにモヤがかかりその山からは見えなかったけれど、帰りの飛行機で見れたエベレストなどの山々です。
雲の上に大きく突き出てたあの立派な姿はいつかもう一度見に行きたいと思います。

僕が行ったのはネパールの大地震の前でした。
僕は大地震後、日本で微々たる募金しかできませんでしたが、現地の方々に深い哀悼の意を表します。

関東進出!

もうご存知の方も多いと思いますが、自分は大分県別府市出身です。
この大好きな故郷を離れたのは、大学で千葉に来た時です。
ですので、こっちに来て驚くことは多かったです。

まずは電車。
都会の電車は超長い!
♪でーんしゃは、続く―よ。どーこまーでもー♪
大分は基本2両でしたよ。

あと、各停?快速?通勤快速?準急?
なんじゃそりゃー!ですよ。
自分、普通と特急しか知らんっす。
快速は、最初普通の切符だけで乗れないと思っていたので、しばらくは東京に行くにも各停で行ってました。

そして、電車の本数の多いこと!
別府大分間は基本1時間に2本です。
だけどこれは大分のほうがいいかも。
だって、朝の7時8分の電車にはステキなあの子と同じ電車、などの楽しみがありました。
男子校の自分には、これくらい許してほしいっす。

ただ今思うと大変なのは、終電。
当時は10時40分が最終。
そりゃ、飲み屋の閉まるのも早くなりますよ。

次には、ファミレス。
ファミレスってものがいろいろあることにびっくり!
あたしは、ジョイフルしか知らんっす。
ドリンクバーなんて、知らなかったので最初に先輩に
「お前、ドリンクバーは?」
って聞かれたとき、「なぜ、わざわざアイスを勧める?」と、驚いたものです。
ただ残念だったのは、チェーン店が普及してるせいでしょうか、安くてうまい定食屋などを地元出身の子に聞いてもなかなか答えてくれる人がいなかったです。

カップラーメンも全然違いました。
うまかっちゃんがない!サンポー焼豚もない!ペヤングってなんじゃい!
うまかっちゃんは、ようやく見つけたと思ったら、パッケージが黄色でなくピンク!
はっきり申し上げましょう、「ピンク、気持ち悪いっす」
ある日、どん兵衛が西と東で味が違うと聞いたので送ってもらいました。
送ってもらった方には小っちゃく(W)と、千葉で買ったのは(E)と書かれてます。
東京と静岡の子にも食べ比べてもらったのですが、(W)のほうがうまかったですね。
少し甘みがあるんです。

チェーン店で言えば、電気屋。
録音用のマイクがほしいので、先輩にどこに売ってるか聞いたら、千葉にヨドバシカメラがあるからそこでと。
さっそくメモをしました。
「淀橋カメラ」
むしろ難しい漢字を知ってるねと、大ウケしました。

さて、何といっても関東に来て一番苦労したのは言葉です。
僕は中学から大分市に行っていたので、そんなに方言は強く無いほうでしたが、同級生に言われたのは、言ってることはわかるけど、怒ってるように思うことがあると。
「お前、何しょんの?」とか言われたら、悪いことしたかなとドキッとすると。
さあ、男子校出身の自分は女性と話すのにも慣れてもいないので、「こりゃ、いけん」と思い、方言は大事にしたいけど、丁寧にしゃべることを心がけます。
さあ、そうするとどうなったと思います。
「あたし、元気よ」
「そうね、そう思うわ」
「それ、食べていいんよ」
そうです、オネエ言葉みたいになってしまったのです!

当時は丸刈りに髭でした。
ですので、汚い格好した男子校出身の髭坊主がオネエ言葉でしゃべる、最高でしょ?
しかも常に裏返ってるような甲高い声の坪井、完璧です!

都会は怖いところ、あの純朴な少年は、もういないのであります。 

これって職業病?

僕はときどきお会いした人に職業病を聞くことがあります。

例えばうちの場合は家族が医療系ですので、病気の話や人体の話が食事中だろうと普通に出てくることがあります。
さすがだと思ったのは、母の還暦祝いに兄貴が何か東京で珍しいものを食べさせようと苦心してくれて、一家でフランス料理を食べに行きました。
ちょっと値が張るし、展望もステキな良いところです。

良い感じで食事が進み、とうとうメインディッシュがきました。
このお店は美味しいフォアグラで有名だったのです。
しかし、たいしておいしくありませんでした。
そしたら、一人が
「フォアグラ、フォアグラいうけど、患部がおいしいわけないよね」
そうです、家族の半分は食べ物というより病気を患ってる部分と見ていたのです。
兄がせっかく思って連れてきてくれたのにその思いとは関係なく、フォアグラの酷評が続きました。

さて、僕の職業病は何でしょう?
やはり音に関してです。
例えばジャズ研ではまず最初に一定のリズムの音を裏拍として聞く練習をします。
説明しますと「タ・タ・タ・タ」を「ンタ・ンタ・ンタ・ンタ」と聞こえるように練習します。
ですので、踏切の音など「カン・カン・カン」でなく、「ン、カン、カン」です。
分からない方は音と音の間に1と3を言ってみましょう、難しいですよ。
要するに「1・カン・3・カン」です。

こんな訓練をしたので、ちょっとした合図音などの休符などを無意識に考えます。
僕がすごく思うのはマクドナルドのポテトが揚がったときの合図「テレレ・テレレ」。
これは絶対アタマは休符だと思います!
「ンテレレ・ンテレレ」
あと千葉(だけじゃないかも)の信号の合図。
「ピュー・ピューピュー、カッコ・カッカコ」
てやつ。これは
「ピュー・ピューピュー、カッコ・ンカッカコ」
16分音符一個の休符が入っていますよ!
こんな感じで、街中の音(声なども)を常に音楽視点で聴いちゃいます。

あとはこの前気づいたのが、僕があるスーパーなミュージシャンと飲んだ時のことです。
あるお店で飲んでて、内容は忘れましたがくだらない会話をしてました。
以下が話の流れの感じです。
「坪井の好みの女性って、どんな人なの?」
「そうですねー、好みの女性は、うぉ!」
「(うれしそうに)そう、ここ小節がトリッキーなの」
「なるほど!、、話してて楽な人っすかね」
以下、女性の好みの話が続く、、、

みなさん、意味わかります?
実はお店で流れてたアルバムはそのミュージシャンのお気に入りが流れてて、僕は初めて聴いたんです。
会話の途中に音楽的に面白い部分があって僕が驚き、相手はすぐに気づき「ここ良いよね」と答えるというのが突然、会話の途中に挟まれる、ということです。

僕らは他の会話をしていてもかなりいろんな音が入ってきています。
逆にオフもありますが。
会話の途中にいきなり「うぉ!」なんて言われたら、驚きますよね。
他にも「フーーッ!」や「なるほどね!」などあります。

電車は宝庫で、一人でもボソッと言っちゃいます。
新幹線で到着の合図に有名曲の一部を使ったりするんですが、すごいとこで終わって、「解決しないのねー(キリよく終わらないのねという意)」と言っちゃったこともあります。
ひどいのは、少しまじめな話をしてて「君のそういうところは、、、、、(不意に上を指さし)すごくない?」。
ちょうどすごいメロディをぶち込んできたのが入ってきちゃったのです。

はーい、病気でーーす!れるれる

僕がジャズ研で学んだこと

そりゃ、たくさんあります!
なんてったって、現在の音楽家としての自分の基礎はここから、大きくひらいていきましたから。

当時の千葉大ジャズ研は異常な環境と言って、過言でないでしょう。
出入りしてくださった先輩方の多くは現在、第一線でバリバリ活躍している方が多くいます。

ジャズ界ではもちろん、ポップス界でも有名なバンドのサポートなどでも活躍中のあの方。
あの超有名なアニメでの音楽も長い間支え、各業界から引っ張りだこのあの方。
世界でも有名な日本人バンドで活躍のあの方。
ジャズ界では、間違いなく中堅の第一人者の1人、あの方。
今や世界的ピアニストな日本人(ジャズ知らなくても知ってる人多いはず)のビッグバンドでも活躍、ニューヨークでバリバリのあの方。

など、ものすごい人たちがいらして、練習やセッションをしておりました。
もちろんこの方々以外の方たちも人間的にも音楽的にもすばらしい方々ばかりでした。

ですので、技術的なことはもちろん知識など音楽のいろいろを教えてもらうには、ものすごい環境でした。

一度、僕のバンドのリハに当時も活躍中、現在世界的に活躍中のドラマーお2人が当時、ドラムの真ん前で見学され、アドバイスをくださるというありがたすぎるのですが、ビビりの僕には恐ろしすぎる状況などありました。
毎日上記の誰かしらはいらっしゃるので、基本恐ろしいのですが、、、

でも本当にみなさま、こんな生意気な自分をかわいがってくださり、いろんな現場に連れてってくださったり、超下手で逃げようとする僕に真剣に向き合ってくださったり、本当に感謝してもしきれないほどの恩を感じております。

そんな超一流の人たちも含め、ジャズ研で学んだことの一番にあがることは何かというと、
「良いものは、良いと言っていい」
ということです。

前回から推察できるように、ジャズというものは、漠然とすごいもの、すごい人たちがやってるもの、理解できないやつは音楽をわかってないやつ、など特別なもののように自分は思っておりました。
Jazzは特別で、ポップスはださい、というような思い込みがありました。

しかし、ジャズ研のみなさんは全然違いました。

TOTOなど西海岸系が大好きなみなさんで、ポップスバンドをやってましたし、そのバンドはゴダイゴをカバーしてたりしてました。
上記の方の中で、「俺、エックスジャパンから音楽入ったよ」という方もいます。
上記の方の中で、日本昔話のエンディング「人間ていいな」を弾いて、「ここのコードは、切なくてとってもいいよね」とまじめな顔で、力説していたこともありました。
上記の中の方で、演歌大好きな方もいました。
ここら辺は、いろいろありますが、このくらいで。

逆に世間ですごいと言われてる人、言われてる演奏に「あれ、まったくわけわかんない」と、正直に言います。

僕は
「あれを良いって言うと、わかってないと思われるんじゃないか」
「本当は分かんないけど、かっこいいと言わないと間違ってるんじゃないか」
などと、本音を隠したりなどがありました。

でも、音楽に真剣な人ほど自分の感覚に正直で、なおかついろんな人と意見を交換し、成長しあってました。
そして、先輩方は僕らのスーパーに下手な演奏を聴いても、今持っているいいところを発見してくれ、正直に良いと教えてくれ、ダメなとこも正直にアドバイスをくれました。
垣根なんてありません、とてもフラットでした。 
おかげで、自分がだめだと思っていたことが実はよいことの種だったり、勝手なフィルターをつけて見ていたこと、知るということ、などいろいろなことに気づかせてくださいました。

ところで、何年か前にタモリさんが「もはやジャズという音楽はなく、ジャズマンという人たちたちがいる」のようなことを言ったという記事を見ました。
本当にタモリさんかどうか知りませんが、この言葉はよく分かります。
ジャズはいろんな音楽を吸収して、広がりまくってます。
何がジャズって、とても言い表し憎くなってます。
下記の思い出は、僕が大好きなジャズマンたちの一つの顔じゃないでしょうか。

「俺、あの演奏、大っ嫌いなんだ」
「えぇ!俺、あの演奏大好き!最高でしょ!」
「マジで?最悪じゃん。」
そうして笑いながら会話が続き5分後、2人で超楽しそうにセッション。
誰の演奏でもない、現在の彼らだけの最高の即興演奏でした。

みなさん、どの瞬間もマジだったなあ。
ジャズ研のステキなジャズマンたちに僕は育てていただきました。 

ジャズ研、入部!

プロフィールに書いておりますが、僕がドラムを始めたのは千葉大学に入学してからです。
でも実は正確には中学生のころにドラム(バンド)を始めたいと思い、高校卒業するまでに少しはスティックに触ったりしていました。
といってもその程度で全然練習なんてしてなかったですし、本格的に始めたのは大学からなので、大学からドラムを始めたと思っております。

さて、前にも書きましたが、中学から何を聴いていたかといいますとTOTOです。
ジェフ・ポーカロ大好き少年でした。
あとは、QueenだったりExtreamだったりとロック系?でした。
ジャズはジェフ・ポーカロもやってると聞き、その流れでラリー・カールトンなどを聴いてました。

ここで気づく人もいると思いますが、いわゆるフュージョンと呼ばれるものをジャズと思っていたのです!
インターネットもなかった時代の大分の片田舎のガキには、そげん(そんな)偏った情報しか手に入りません。
モントルージャズフェスが衛星テレビでやってたので、録画して見まくってましたが、Deep Purpleも出ますから、テレビに映るのはスウィング系の演奏はほとんどなかったし、スウィングなんてものは知らなかったので全く気づきませんでした。

そんな田舎の少年は、ドラムをやりたい!と大都会”千葉”に来て偉そうに「俺のやりたい音楽は、よさげな人のいるポップスのサークルに入ってやって、技術はジャズが高いらしいから、ジャズのサークルで技術を学ぼう。でも、そもそもサークルってなんじゃい?」と思っておりました。
ですので、大学の初っ端にあるサークルの日(いろんなサークルが実演などしながら紹介する日)に行って、ポップスのうまいドラマーがいたサークルとジャズサークルに入ると決めました。

そして、説明会は一週間後なのに、もう次の日にジャズ研に顔を出そう、練習しようと訪ねました。

ちなみにこのアホバカ少年はサークルの日に外でやっていたジャズ研の演奏を観たのですが、「あ、ドラムうまいんじゃないの、、、よくわからんけど。でもあのでっかいやつ(コントラバス)、だせぇなぁ(見た目)」と、思ってました。
都会に放り込まれ、人見知りもあり、田舎でお山の大将気分だったハナタレは、「なめられちゃいけねぇ」という気負いがあり、こう思っていました。

さあ、自分は何もできないくせに「うまくなるためじゃあ」と応援団で培ったつっぱった気持ちで、ジャズ研のドアを叩きました。
そしたら、そこにはジャズ研のエースの人たちがセッションをしていたのです!

千葉大のジャズ研は6畳くらいの狭い部室でした。
でもそこにいた先輩方は、とても快く迎えてくださり、「見学して行きなよ」と声をかけてくれました。
そこで演奏してくれたオレオという曲が衝撃でした!

オレオという曲は、テンポを速く演奏することが多く、その時もアップで演奏しており、すごい演奏でした!
サークルの日は、心を閉ざしていましたし、遠くから眺めるだけでした。
でもここは6畳、覚悟もして来た!
否応なしにいろいろ気づきます。
「なんだ、右手三連打してるぅ!」「左手、何やってんの?細かくて全然わかんねーー!」「何?あのでっかいの(コントラバス)の音の迫力!見た目もかっけーやーん!」「ピアノってお上品なもんじゃないの?そんなの知らねー!」
ですよ!
ドラムソロも途中でするし、なんてかっこいいんだ!とノックアウト。
圧巻だったのは、ラストテーマでピアノとベースとドラムがメロディをユニゾン(一緒に合わせて弾く)。
「ドラムってリズムを刻むだけじゃないの?こん人たち、なんなの?ジャズってなんなのーーんっ?」
です。

それから、ジャズにドはまり!
調子ぶっこいていた井の中の蛙は、従順な生徒へ。
いろいろ教えてもらい、僕が今まで聴いていたのはフュージョンで、いわゆるジャズとはちょっと違うことを知りました。
圧倒されまくりでしたし、左足は普段使わないと思いこんでたので、気づかなかった2拍4拍でハットを踏んでることを教えてもらった時には、たまげて目が飛び出まくりでした。

それから、先輩に貸していただいたオスカー・ピーターソンとジョシュア・レッドマンの2枚を3か月以上それのみずっと聴くという日々が始まり、ジャズの世界への一歩を踏んだのでした。

ちなみにこのように衝撃をうけまくった小僧は、ポップスのサークルには行かず(これはもう一つ理由があるのですが、次回)、一週間後の説明会までの間、入ったばかりの一年なのに同じ一年に勧誘のチラシを配る手伝いをする、というよく分からないことをすでにしてました。

余談ですが、説明会でもらった入部届の名前の記入欄にフリガナを書くところがありました。
フリガナってカタカナで書いてるから、カタカナで自分の名前を書くんだぜ!と僕は自信をもって書きました。
そしたら僕の「つ」は「し」、「し」は「つ」に見えるそうです。
ですので「シボイ ヒロツ」。
その日から僕の名前は「しぼい」になりました。

小学生のころ母親に「上から降ろすのがツ、下からあげるのがシ」って、ちゃんと習った記憶が鮮明にあるのに、、、そこより点々を縦棒で書くか、横棒かのほうが重要なのね、、、、
知らんかったっす。

ですので、僕のジャズ研時代の同級生以上は、「シボイ」って呼びます。

次回はジャズ研で培った音楽を題材に書きたいと思います。

ビュティホ・ネイッ!ビュティホ・ネイ!

「僕は坪井洋!お父さんが太平洋のようにってつけてくれたんです!」

これがあたしの幼稚園のころの決まり文句でした。
僕はこれを知った時から、何か分からないけど誇らしく、よく言っておりました。
なんか自慢げにいろんな人に言っていたのを思い出します。
もちろん最近では響き優先の名前も増えているようですが、日本では名前に意味を込めてつけることが多いと思います。

さて、海外に行くとちょっと苦労することが多いのが、名前を覚えることです。
やはり横文字は覚えにくい、なじみがないですから。
まだスティーブやマックスなどは覚えやすいですが、パターンが少ないので、どのスティーブってこともしばしば。
名前を覚えるのには苦労しました。

僕が海外にいて強く感じたことは、いろんな国の人が日本に比べとても多いこと。
ですので、いろんな国の方と出会いました。
みなさん、ステキな名前を持っており、たかが何文字かなのに国によって全然違い、とてもステキな響きを持っておりました。

例えば、カナダでの大家さんの名前はイースターさん。
白髪のきれいな年配の女性の方。
「なんでこの名前か知らないわ。その日に生まれたわけでもないし。でも覚えやすいでしょ!」
と、くるんくるんな目をさらにクルクルさせながら、ステキな笑顔で説明してくださいました。
明るい性格にとってもあったステキな名前だと思いました。

アントン。
なんかぽっちゃりの男の子を想像してしまいますが、はち切れんばかりの鳩胸の超マッチョの男性。
でもとっても無口で照れ屋。
そこがアントンという名前で、かわいく感じました。

スウェーデンにいたころは、学生寮にいたのもありゆっくり話せる友達もいたので、名前の話題になったことがあります。
そこで、スウェーデンの名前事情を聞きました。

まず名字の「~ソン」というのは、誰々の子どもという意味だそうです。
グスタフソンなら、グスタフさんの子ども。
スベンソンは、スベンさんの子どもといった具合です。
だから、ラーシュ・ヤンソンは、ヤンさんの子どものラーシュ君ということですね。
名字はそうやって、できていったようです。

名前はどうやって付けるの?と聞いたら、響きでつけるかな、でした。
意味はあんまり考えないことが多いかなと。
でも何かの神様の名前だったりするので、一緒に話していたレベッカとヤンマルに何かあるのと聞きました。

レベッカは20歳の、引っ込み思案だけど少しわがままな女性。
「神様の一種で、たしか牝牛だったわ」
牝牛!
かわいい女の子に牛の名前をつけちゃうとは、、、
本当か本人もあやふやでしたが、それに気づき、彼女も笑っていました。

続いてヤンマルは、22歳の男性。
男らしく、ちょっとダンディな感じの優しいやつでした。
「俺は、ヘルメットって意味らしいよ」
ヘルメット!
ザッツ・バイキーングー!
日本からすると「何があっても頭を守ってね」でしょうか?

みんなで、爆笑しました。

またこんな出会いもありました。
ベルリンにいたとき、僕のルームメイトに途中から、超オシャレでかっこいいイタリア人の建築家がやってきました。
なんと彼は貴族の家系。
おばあちゃんまでが貴族で、ウィキペディアにも出るほど有名な名家だそうです。
彼のうちは、女性が当主のようで、女性が継いでいってるようです。
なんと女性は名前も次ぐそうです。
前の代の方の名前を残しさらに名前を付けるそうです。
ようするにお母さんの名前が、山田・花子なら、その娘は山田花子・利香になるんですね。

ですのでお母さんは、むちゃくちゃ名前が長かったそうです。
結婚して、名前が一気に短くなりとってもうれしかったようです。
書類にフルネームを書くのが、相当大変だったと。

そして彼については名前のとてもステキなエピソードが。

ちなみにカナダ時代に多かったのですが、韓国の方や台湾の方は好きな愛称を自由に自分でつけてました。
「ジョイ」「マイク」「ユイ」など。
理由は、本名だと呼びにくく覚えにくいからと。
中には、君はどう見ても違うでしょ、という女の子が「エンジェル」と名付けていて、どぎまぎしたことがあります。

確かに最初に申したように異国の名前は覚えにくいというか、発音しにくいというか苦労します。
でも僕はまるっきり変えるのは少し反対で、「ヒロ」と呼んでくれと言っておりました。

ですので、同じようにイタリアの彼に「ヒロです」と言いました。
そしたら彼が、「フルネームは何というの?」と。
ですので答えたら「ヒロシ!とっても日本的なステキな響きだ!ヒロシって呼んでいいかい?」
なんか、とってもうれしかったです。
確かに少し発音しにくそうで、少し練習してましたが、僕のことをずっと「ヒロシ」と呼んでくれました。

僕が海外の人の名前にとてもステキな響きを感じるのと同じように彼も感じてるんですね。
うれしかったなあ。

僕の世代ごろから、国際化という言葉がはやり、ヨーロッパ圏の名前のような響きをつけたほうがいい、という意見もありますが、そんなことは全然考える必要はないようです。
むしろ日本的な響きのほうが、少し神秘的に感じたり好印象に傾くことが多いのではと思います。
確かに少し覚えにくいなどはありますが、そんなことより大切にするものがあるような気がします。

さあ、歌いましょう!
Every child has a beatiful name,a beautiful name,a beautiful name!
よびかっけよう、なま~えを、すばらしい、なま~えを!

おす!おら、応援団

僕はよく返事に「おす!」というのを使います。
何故かと申しますと、中高一貫男子高時代に応援団に入っていて、その時のくせが染みついてしまっちゃっているのです。

別に応援団といっても、うちの学校は部活がむちゃくちゃ弱く応援しに行くような舞台はないですいし、体育祭で披露するだけのものでした。
ただ、普通の体育祭のためだけの応援団とは少し違い、つながりが異常に強く、団員であることの誇りがとても高かったです。

中学3年生から入れるようになるのですが、3年の団員徴集のときはその学年の調子にのってるやつ、活きのよさそうなやつが8人、半強制的に選ばれます。
ですので、先輩方も怖かっこいい方々ばかりで、不良ぶってるガキはすぐに憧れてしまうのですね。
選ばれた瞬間は、人前でそんなの嫌だな、と思うのですが、僕もすぐに団員として誇りを持つようになっておりました。

そして、最初にならうのが返事の仕方です。

おす!!

応援団の活動中は、返事は「おす!」
「はい」や「いいえ」は関係ありません。
とにかく「おす!」

団長「お前ら、声が出てねえやねえか!」
団員一同「おーっす!」

団長「お前ら、やる気ねーんか!」
団員一同「おーっす!」

言葉の内容でなく、声の大きさで表すという斬新な表現方法でした。
ですので、

先輩「お前、援団をなめてんのか!」
坪井「おーすっ!」(そんなことありません!)
先輩「あ、なめてんのね。ボコられたいってことね」
坪井「おーーーすっ!」(お許しください!)
蹴られまくったあと
坪井「おーーすっ!」(申し訳ございませんでした!)

と、一つの言葉に、いろいろな思いを込める表現法を学びます。
もちろん、どう受け取るかは相手次第という、表現と相手の関係性も学べます。

このように援団にはまりまくった自分たちは、美的感覚も気合と根性が中心になります。
例えば、先輩に
「援団の声は、まず喉から血を吐いてからじゃあ」
と言われると、仲間たちの中で
「俺、口の中が血の味がするぜ」
というワード(さりげなく言う)がはやり、唾を吐いて血が混ざってるのを見せ「やるじゃねえか」と、納得しあうという奇行が当たり前になります。

一番下っ端の時代は、とにかく粋がるだけでした。
しかし、後輩ができてくると少し変わってきます。
あのかっこよかった先輩のようになりたい!という意識が芽生えてきます。

僕がかっこいいと思った先輩は、周りのちゃんといいところ、がんばってるところを認めてくれる先輩でした。
そして、だめなところはしっかり教えてくれる人でした。
その人たちは、演武もかっこいいし、言ってること見ているとこも、とても的確でした。

なんでだろうと、思いました。

しかし、答えは簡単だったんです。
その人たちは、自分が目指すかっこいいに向かって努力しまくり、また下っ端の時に僕と同じようにそういう先輩方に同じように教えてもらってるんです。
中3の下っ端時代は、ただひたすらやってきましたが、後輩ができるとよく分かりました。

精神的にも肉体的にも限界ギリギリに追い込まれ、そこで出てくる自分の弱さ。
でも援団が好きで、粋がり、がんばるやつらは、とてもかわいかったです。

たぶんこの応援団での3年間が僕の音楽をやっていく姿勢にとても強く関わってると思います。
音楽の世界には目指したくなるかっこいい先輩(知ってる限り90歳以上で先を見続けてる方がいます)がいっぱいいるし、ガツガツくる音楽大好きで必死な後輩がたくさんいますもんね。

あたし、負けない。
かっこよくあり続けるぞ!

そして、今日もどこかで気合を入れて、おす!と返事をしているのでしょう。