これって職業病?

僕はときどきお会いした人に職業病を聞くことがあります。

例えばうちの場合は家族が医療系ですので、病気の話や人体の話が食事中だろうと普通に出てくることがあります。
さすがだと思ったのは、母の還暦祝いに兄貴が何か東京で珍しいものを食べさせようと苦心してくれて、一家でフランス料理を食べに行きました。
ちょっと値が張るし、展望もステキな良いところです。

良い感じで食事が進み、とうとうメインディッシュがきました。
このお店は美味しいフォアグラで有名だったのです。
しかし、たいしておいしくありませんでした。
そしたら、一人が
「フォアグラ、フォアグラいうけど、患部がおいしいわけないよね」
そうです、家族の半分は食べ物というより病気を患ってる部分と見ていたのです。
兄がせっかく思って連れてきてくれたのにその思いとは関係なく、フォアグラの酷評が続きました。

さて、僕の職業病は何でしょう?
やはり音に関してです。
例えばジャズ研ではまず最初に一定のリズムの音を裏拍として聞く練習をします。
説明しますと「タ・タ・タ・タ」を「ンタ・ンタ・ンタ・ンタ」と聞こえるように練習します。
ですので、踏切の音など「カン・カン・カン」でなく、「ン、カン、カン」です。
分からない方は音と音の間に1と3を言ってみましょう、難しいですよ。
要するに「1・カン・3・カン」です。

こんな訓練をしたので、ちょっとした合図音などの休符などを無意識に考えます。
僕がすごく思うのはマクドナルドのポテトが揚がったときの合図「テレレ・テレレ」。
これは絶対アタマは休符だと思います!
「ンテレレ・ンテレレ」
あと千葉(だけじゃないかも)の信号の合図。
「ピュー・ピューピュー、カッコ・カッカコ」
てやつ。これは
「ピュー・ピューピュー、カッコ・ンカッカコ」
16分音符一個の休符が入っていますよ!
こんな感じで、街中の音(声なども)を常に音楽視点で聴いちゃいます。

あとはこの前気づいたのが、僕があるスーパーなミュージシャンと飲んだ時のことです。
あるお店で飲んでて、内容は忘れましたがくだらない会話をしてました。
以下が話の流れの感じです。
「坪井の好みの女性って、どんな人なの?」
「そうですねー、好みの女性は、うぉ!」
「(うれしそうに)そう、ここ小節がトリッキーなの」
「なるほど!、、話してて楽な人っすかね」
以下、女性の好みの話が続く、、、

みなさん、意味わかります?
実はお店で流れてたアルバムはそのミュージシャンのお気に入りが流れてて、僕は初めて聴いたんです。
会話の途中に音楽的に面白い部分があって僕が驚き、相手はすぐに気づき「ここ良いよね」と答えるというのが突然、会話の途中に挟まれる、ということです。

僕らは他の会話をしていてもかなりいろんな音が入ってきています。
逆にオフもありますが。
会話の途中にいきなり「うぉ!」なんて言われたら、驚きますよね。
他にも「フーーッ!」や「なるほどね!」などあります。

電車は宝庫で、一人でもボソッと言っちゃいます。
新幹線で到着の合図に有名曲の一部を使ったりするんですが、すごいとこで終わって、「解決しないのねー(キリよく終わらないのねという意)」と言っちゃったこともあります。
ひどいのは、少しまじめな話をしてて「君のそういうところは、、、、、(不意に上を指さし)すごくない?」。
ちょうどすごいメロディをぶち込んできたのが入ってきちゃったのです。

はーい、病気でーーす!れるれる

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僕がジャズ研で学んだこと

そりゃ、たくさんあります!
なんてったって、現在の音楽家としての自分の基礎はここから、大きくひらいていきましたから。

当時の千葉大ジャズ研は異常な環境と言って、過言でないでしょう。
出入りしてくださった先輩方の多くは現在、第一線でバリバリ活躍している方が多くいます。

ジャズ界ではもちろん、ポップス界でも有名なバンドのサポートなどでも活躍中のあの方。
あの超有名なアニメでの音楽も長い間支え、各業界から引っ張りだこのあの方。
世界でも有名な日本人バンドで活躍のあの方。
ジャズ界では、間違いなく中堅の第一人者の1人、あの方。
今や世界的ピアニストな日本人(ジャズ知らなくても知ってる人多いはず)のビッグバンドでも活躍、ニューヨークでバリバリのあの方。

など、ものすごい人たちがいらして、練習やセッションをしておりました。
もちろんこの方々以外の方たちも人間的にも音楽的にもすばらしい方々ばかりでした。

ですので、技術的なことはもちろん知識など音楽のいろいろを教えてもらうには、ものすごい環境でした。

一度、僕のバンドのリハに当時も活躍中、現在世界的に活躍中のドラマーお2人が当時、ドラムの真ん前で見学され、アドバイスをくださるというありがたすぎるのですが、ビビりの僕には恐ろしすぎる状況などありました。
毎日上記の誰かしらはいらっしゃるので、基本恐ろしいのですが、、、

でも本当にみなさま、こんな生意気な自分をかわいがってくださり、いろんな現場に連れてってくださったり、超下手で逃げようとする僕に真剣に向き合ってくださったり、本当に感謝してもしきれないほどの恩を感じております。

そんな超一流の人たちも含め、ジャズ研で学んだことの一番にあがることは何かというと、
「良いものは、良いと言っていい」
ということです。

前回から推察できるように、ジャズというものは、漠然とすごいもの、すごい人たちがやってるもの、理解できないやつは音楽をわかってないやつ、など特別なもののように自分は思っておりました。
Jazzは特別で、ポップスはださい、というような思い込みがありました。

しかし、ジャズ研のみなさんは全然違いました。

TOTOなど西海岸系が大好きなみなさんで、ポップスバンドをやってましたし、そのバンドはゴダイゴをカバーしてたりしてました。
上記の方の中で、「俺、エックスジャパンから音楽入ったよ」という方もいます。
上記の方の中で、日本昔話のエンディング「人間ていいな」を弾いて、「ここのコードは、切なくてとってもいいよね」とまじめな顔で、力説していたこともありました。
上記の中の方で、演歌大好きな方もいました。
ここら辺は、いろいろありますが、このくらいで。

逆に世間ですごいと言われてる人、言われてる演奏に「あれ、まったくわけわかんない」と、正直に言います。

僕は
「あれを良いって言うと、わかってないと思われるんじゃないか」
「本当は分かんないけど、かっこいいと言わないと間違ってるんじゃないか」
などと、本音を隠したりなどがありました。

でも、音楽に真剣な人ほど自分の感覚に正直で、なおかついろんな人と意見を交換し、成長しあってました。
そして、先輩方は僕らのスーパーに下手な演奏を聴いても、今持っているいいところを発見してくれ、正直に良いと教えてくれ、ダメなとこも正直にアドバイスをくれました。
垣根なんてありません、とてもフラットでした。
おかげで、自分がだめだと思っていたことが実はよいことの種だったり、勝手なフィルターをつけて見ていたこと、知るということ、などいろいろなことに気づかせてくださいました。

ところで、何年か前にタモリさんが「もはやジャズという音楽はなく、ジャズマンという人たちたちがいる」のようなことを言ったという記事を見ました。
本当にタモリさんかどうか知りませんが、この言葉はよく分かります。
ジャズはいろんな音楽を吸収して、広がりまくってます。
何がジャズって、とても言い表し憎くなってます。
下記の思い出は、僕が大好きなジャズマンたちの一つの顔じゃないでしょうか。

「俺、あの演奏、大っ嫌いなんだ」
「えぇ!俺、あの演奏大好き!最高でしょ!」
「マジで?最悪じゃん。」
そうして笑いながら会話が続き5分後、2人で超楽しそうにセッション。
誰の演奏でもない、現在の彼らだけの最高の即興演奏でした。

みなさん、どの瞬間もマジだったなあ。
ジャズ研のステキなジャズマンたちに僕は育てていただきました。

ジャズ研、入部!

プロフィールに書いておりますが、僕がドラムを始めたのは千葉大学に入学してからです。
でも実は正確には中学生のころにドラム(バンド)を始めたいと思い、高校卒業するまでに少しはスティックに触ったりしていました。
といってもその程度で全然練習なんてしてなかったですし、本格的に始めたのは大学からなので、大学からドラムを始めたと思っております。

さて、前にも書きましたが、中学から何を聴いていたかといいますとTOTOです。
ジェフ・ポーカロ大好き少年でした。
あとは、QueenだったりExtreamだったりとロック系?でした。
ジャズはジェフ・ポーカロもやってると聞き、その流れでラリー・カールトンなどを聴いてました。

ここで気づく人もいると思いますが、いわゆるフュージョンと呼ばれるものをジャズと思っていたのです!
インターネットもなかった時代の大分の片田舎のガキには、そげん(そんな)偏った情報しか手に入りません。
モントルージャズフェスが衛星テレビでやってたので、録画して見まくってましたが、Deep Purpleも出ますから、テレビに映るのはスウィング系の演奏はほとんどなかったし、スウィングなんてものは知らなかったので全く気づきませんでした。

そんな田舎の少年は、ドラムをやりたい!と大都会”千葉”に来て偉そうに「俺のやりたい音楽は、よさげな人のいるポップスのサークルに入ってやって、技術はジャズが高いらしいから、ジャズのサークルで技術を学ぼう。でも、そもそもサークルってなんじゃい?」と思っておりました。
ですので、大学の初っ端にあるサークルの日(いろんなサークルが実演などしながら紹介する日)に行って、ポップスのうまいドラマーがいたサークルとジャズサークルに入ると決めました。

そして、説明会は一週間後なのに、もう次の日にジャズ研に顔を出そう、練習しようと訪ねました。

ちなみにこのアホバカ少年はサークルの日に外でやっていたジャズ研の演奏を観たのですが、「あ、ドラムうまいんじゃないの、、、よくわからんけど。でもあのでっかいやつ(コントラバス)、だせぇなぁ(見た目)」と、思ってました。
都会に放り込まれ、人見知りもあり、田舎でお山の大将気分だったハナタレは、「なめられちゃいけねぇ」という気負いがあり、こう思っていました。

さあ、自分は何もできないくせに「うまくなるためじゃあ」と応援団で培ったつっぱった気持ちで、ジャズ研のドアを叩きました。
そしたら、そこにはジャズ研のエースの人たちがセッションをしていたのです!

千葉大のジャズ研は6畳くらいの狭い部室でした。
でもそこにいた先輩方は、とても快く迎えてくださり、「見学して行きなよ」と声をかけてくれました。
そこで演奏してくれたオレオという曲が衝撃でした!

オレオという曲は、テンポを速く演奏することが多く、その時もアップで演奏しており、すごい演奏でした!
サークルの日は、心を閉ざしていましたし、遠くから眺めるだけでした。
でもここは6畳、覚悟もして来た!
否応なしにいろいろ気づきます。
「なんだ、右手三連打してるぅ!」「左手、何やってんの?細かくて全然わかんねーー!」「何?あのでっかいの(コントラバス)の音の迫力!見た目もかっけーやーん!」「ピアノってお上品なもんじゃないの?そんなの知らねー!」
ですよ!
ドラムソロも途中でするし、なんてかっこいいんだ!とノックアウト。
圧巻だったのは、ラストテーマでピアノとベースとドラムがメロディをユニゾン(一緒に合わせて弾く)。
「ドラムってリズムを刻むだけじゃないの?こん人たち、なんなの?ジャズってなんなのーーんっ?」
です。

それから、ジャズにドはまり!
調子ぶっこいていた井の中の蛙は、従順な生徒へ。
いろいろ教えてもらい、僕が今まで聴いていたのはフュージョンで、いわゆるジャズとはちょっと違うことを知りました。
圧倒されまくりでしたし、左足は普段使わないと思いこんでたので、気づかなかった2拍4拍でハットを踏んでることを教えてもらった時には、たまげて目が飛び出まくりでした。

それから、先輩に貸していただいたオスカー・ピーターソンとジョシュア・レッドマンの2枚を3か月以上それのみずっと聴くという日々が始まり、ジャズの世界への一歩を踏んだのでした。

ちなみにこのように衝撃をうけまくった小僧は、ポップスのサークルには行かず(これはもう一つ理由があるのですが、次回)、一週間後の説明会までの間、入ったばかりの一年なのに同じ一年に勧誘のチラシを配る手伝いをする、というよく分からないことをすでにしてました。

余談ですが、説明会でもらった入部届の名前の記入欄にフリガナを書くところがありました。
フリガナってカタカナで書いてるから、カタカナで自分の名前を書くんだぜ!と僕は自信をもって書きました。
そしたら僕の「つ」は「し」、「し」は「つ」に見えるそうです。
ですので「シボイ ヒロツ」。
その日から僕の名前は「しぼい」になりました。

小学生のころ母親に「上から降ろすのがツ、下からあげるのがシ」って、ちゃんと習った記憶が鮮明にあるのに、、、そこより点々を縦棒で書くか、横棒かのほうが重要なのね、、、、
知らんかったっす。

ですので、僕のジャズ研時代の同級生以上は、「シボイ」って呼びます。

次回はジャズ研で培った音楽を題材に書きたいと思います。

ベルリンでの自主練

今回は早い更新であります!

さて、スウェーデンでもだったのですが、ベルリンでは日本のいわゆる貸スタジオみたいなのはあまりありませんでした。
どうしているかというと、基本的にみんな家で練習できたり、スタジオに使える部屋を何人かで共有して借りてたりします。
そういう物件がまあまああるので、貸しスタジオをわざわざ毎回借りてなんてしないんですね。

例えば月500ユーロの練習部屋を4人とかで借りてて、曜日や時間帯で分けて使います。
ここで、個人練習はもちろんバンドのリハなども行います。
ですので、この部屋を持っているやつ(特にドラマー)は仕事が有利になります。
だって、そいつを雇えばリハ場所も同時に確保できますし、自分がいろんなミュージシャンを呼んで交友をどんどん広げていけますから。
全員、こういう練習場所を持っているわけでないし、ドラムは置いてないことが多いので、ここも雇いのポイントになります。
僕はドラムセットもリハスタも確保できてなかったので、実際このせいでいくつかのバンドを逃しました。

さて、僕は自主練習をどうしていたかというと、まずベルリンに着いて練習パッド的なものを買いに行きました。
予想以上に高かったですね。
帰国したら自分のも持ってるし、わざわざ買うのもなぁ、と思ってたところ、ひらめきました!

別にパッドじゃなくていいじゃん!

そこで、スネアスタンドは日本にあるのはだいぶ傷んでるから、買っちゃおう。
そしてそこに板のようなものを載せて、ゴムのようなものをひけば十分じゃん!

とういうことで、さすがベルリン、大きな画材屋さんみたいなところに行ったら、いろんな板やゴム的なものが多々あります。
しかも超安い!
結局スネアスタンドとブラシの練習もできそうな滑らかな板、スティック用のための消音ゴムを買って練習道具は揃いました。

さて、あとは場所です。

僕は最初ギャラリーの一角にある四人部屋に住んでいました。
そこの敷地には大きな駐車場があったので、その角っこに行きました。
煉瓦造りの花壇が出っ張っていて、シンバルやハットの高さになります。
バッチリです!
そこで毎日練習が始まりました。

通る人は僕をよくちらちら見たりしましたが、むしろ好意的でした。
住んでる方やギャラリーの方にうるさくないかとよく質問しましたが、みんな「全然!そんなこと気にしなくていいよ」と、やさしく声をかけてくれました。

僕は毎日、そこで練習して、ジャムセッションに行って闘うという日々が続いておりましたが、12月くらいになってくるとだいぶ寒くなってきました。
そうしたら、そのギャラリーのオーナーが話しかけてくれました。

「ヒロ、とってもがんばってるね!でも寒くないかい?ちょっとついてらっしゃい。」

そこは、僕が住んでるとこの裏のビルで、絵描きの方の共有スタジオが何部屋か入ってるところでした。
そこにあるキッチンに連れてってくれ、

「ここならみんなの邪魔にならないから、練習をしていいよ。帰るときに暖房の消し忘れだけはしないようにね。」

と言って、そこでの練習を許可してくださいました!
しかもこの階に入る鍵も新たにくれました。
もう涙がちょちょぎれそうになり、うれしくて何度も何度もお礼を言いました。

それから、迷惑にならないよう気をつけながら、そこで練習したので、画家の子たちとも仲良くなり、いろんな意見交換もしました。
海外から来てる人も多かったので、いろんな話を聞けてよかったです。

ところで、その韓国系のオーナーの方は、毎月注目株の展覧会をそこで行います。
彼女は50・60代ですが展覧会では胸がガバっと開いた皮のドレスを着たりと超かっこいい破天荒そうな女性でした。
ですので、見た目はけっこう怖そうなのですが、ただものごとをはっきり言うだけで、優しい方でした。

本当に寂しくつらいこともたくさんあった海外生活は、彼女のようなステキで優しいたくさんの方々のおかげで乗り越えられました。
本当に感謝しております。

修行

さて、前にも書きましたが僕がプロの音楽家になりたいと志したのは中学生の時です。
でも当時、素行も悪かった僕はドラムをすることは許されず、日々音楽を聴きまくりながらドラムの音をひたすら口ずさむなど、楽器を使わない音楽修行を行っておりました。

傍から見ると変態ですよね!
当時はTOTOのジェフ・ポーカロが大好きで、ロザーナなどを主旋律でなく打楽器だけをブツブツ言ってました。
自転車に乗りながら「タカドジーン、ドパン、ドドッ、ドッドパン」
電車を待ってても「チパチ、チパチパン、チパチ、チパチ、チパチパン」
と、唱え続けてます。
四六時中、音楽を聴いてやっていたので当時家族はどう思っていたんでしょう?

また、音楽の修行だけでありません!
音楽を目指すということは、「貧乏でつらい時期も乗り越えなければならない!」と妄想していた僕はその来たる日のための修行も開始します。

僕の部屋は板張りのフローリングで、寝るのはベッドでした。
修行を思いつきました。
住む家もなくなり、道端で寝なければいけないこともあるかもしれない!
そう叫んだ少年は、ペラッペラのゴザをどこかから探し出して、床に敷き、それで毎日寝るという修行を始めます。
しばらくし、「これでどこでも寝れる」と自信をつかんだ少年は、ベッドに戻り、そのフワフワさに酔って気持ち悪くなるという、さらに上の世界へステップアップできました。

ご飯しか手に入らなかったという貧乏エピソードを聞いたら、親がいないときには毎回チャーハン(具無し)を作って食事をすます修行など、他に直すべきところがたくさんあるのに、甘ったれは適当なことを真剣にやってました。

大学に入ってもその要素は残っており、いろいろやっております。
今も残ってる部分がちらほら。
そんなことをせずにスティック握っとけよということなのですが、思春期のエネルギーは、必ずしもまっすぐ飛ぶわけではないようですね。

歌詞について

僕は器楽奏者だからなのか、前から歌詞は意味として入ってくるより音として入ってくることが多いです。

例えば最近で言えば、アナと雪の女王のLet it go。
この作品の翻訳は、映像の口の動きをかなり意識されてつくられたそうですが、そのためなのか、いい例をくれるので、僕の感覚がどういうもの説明します。

「Let it go~」の部分。日本語では「ありの~、ままの~」ですね。
これからつながる一節だけとれば、大正・昭和のすばらしい詩人、金子みすずさんもすでに詠まれてる「みんなちがって、みんないい」につながる、ステキな価値観だと思います。

でも音は僕にはちょっとつらいです。
特に「ままの~」部分。
僕は「まま」を「の」の部分に向かう装飾音的に歌うほうが、かっこいいメロディと思うのですが、この歌詞だとどうしても「まま」の母音を強くはっきり歌ってしまい、「ド、ド、ド~ン」と三連打になり、ダサく感じてしまいます。
しかも「ま」は口を閉じてから発音するので、最悪です。しかも二連打。

まあ、細かく言うともっとありますが、要するに僕にとって歌は「響き」がかなり重要ということです、文字を読んでるわけでないので。
日本では一般的にはいい歌詞とは、いい内容の歌詞ということのほうが、重きになってることが多いですね。
ひどいのだと「歌がないから、意味が分からない」などとインストでやってると言われることもあるくらいですし。

このように僕は歌詞も音と聴いていることが多く、あまり意味が入ってこないことも多々あります。

しかし、しかしですよ。
僕も響きだけを大事にしてるわけではありません。
意味がメロディと合わさり、強烈になって心に入ってくるものは最強と思います。

例えば最近の自分のテーマソング「ファイト」。
中島みゆきさんのライブの映像のは強力でしたね。
特に強烈に感じるのは「たたかう、きみのうたを~」のところは強烈です。
がちこーんっと入ってきて、その言葉から生じる情景が一気に広がり、号泣でした。
いろいろな場面で、この節がパッと流れ、力をくださいます。

僕にとってこの曲は自然に歌詞が流れてくる名曲です。

いろいろ書きましたが、歌詞は上記だけでは表せないいろんな側面も孕んでいますね。
歌詞って不思議です。

ちなみに僕が海外にいるときは、「走れ、コウタロー」がテーマソングでした。
この曲は、ダービー出場の無印のコウタローは、スタートダッシュで出遅れますが、本命・穴馬をかき分け、追いつき追い越し、騎手を振り落し、ぶっちぎっていく、という歌詞です。

僕は18歳でようやくドラムをしっかり始めスタートダッシュが出遅れます。
同期や後輩はガンガンに先を行っちゃってました。
そのうえ、30歳から海外修行に行くという出遅れです。

もともとジャムセッションが苦手な僕は、海外で行くときは毎回いろんな理由を自分につけて何とか、見つけられる限り行ってました。
しかし、やっぱりセッションではいろいろなことが起き、悔しい思いをして帰ることも多々ありました。
そういうときにこの曲を歌いながら、「いつかぶち抜いていってやる」と自分の弱さにむち打ち帰っておりました。

セッションで悔しい思いで帰ってた時、たまたまIpodに入っていたこの歌が流れ、号泣しながら歌った景色は忘れられないですね。
スウェーデンの冬の田舎の坂道、そこを号泣しながら「走れコウタロー」を歌い、のぼっていく日本人。
その絵は、僕にはオツなものに思えます。

僕はまだダービーの最中です。

僕が教育・福祉施設で演奏をする経緯~これから~

僕は一年位前まで、カナダ・スウェーンデン・ドイツにいました。

僕が海外生活の中心にスウェーデンを選んだ理由の一つは、福祉大国と呼ばれてる国の実際はどうなのかを見たいっていうものです。
そして前回書いたように、ちゃんとしたミュージシャンが学校で授業をするという目標をミュージシャンとして実現させていくためには、海外でも修業をしたかったのです。

前にも書いたので詳しくは書きませんが、海外生活で本当にいいなと思ったのは、音楽はもちろん芸術が身近で、敬意が払われており、国によって守られてる部分も多くある点です。
特にスウェーデンでは、学校教育の現場に芸術家(以外にもいろんな専門家に入ってほしい)が入ることにより、そのものの理解を深め、それが身近にもなり、あらゆる視野が広がる一助になり、その分野の保護にも繋がっておりました。

日本では学習指導要領だと、いろんな音楽をふれさせる、とか載っております。
しかし例えば、クラシックを中心に学んできた学校の先生が、ジャズを教えられない人がほとんどでしょうし、知ってる風に思って日本人だけの勝手なイメージを植え付けられては非常に僕らにとって困ります。
先生は教育の専門家ですから、やりっぱなしにならないように専門家と子ども達を繋ぐ重要な役割を担ってほしい。
ですので、専門家が教育現場に入っていくという活動はガンガン進めていきたいです。

ところで、僕が帰国した後、大きな出会いがありました。
「心魂プロジェクト」という団体さんです。

僕が前述の「もじゃけん」時代から付き合いがあり、「かつどう広場」の一員でもあった、保育士の小野澤さんから、帰国後すぐに連絡がありました。
一つは重症心身障がい者病棟で、ステキなランチ会をするため、バックミュージックでステキな空間を作ってくれないかと。
これは、喜んでしました。
もう一つは、元劇団四季の方などが中心に立ち上げたばかりの団体が今度病院で演奏するから、来ないかと。
僕は、その団体の方がどうというよりも、患者さんの反応をゆっくり見る機会は今まであまりなかったので、それを見るいい機会でもあるから行こうと思いました。

しかし、実際心魂プロジェクトさんを見てびっくり!すばらしいパフォーマーの方々で、ちゃんとしたプロのミュージカルでした。
正直、こんなレベルの人が病院にいらっしゃるとは思いませんでした。
その後、小野澤さんの力もあり、僕は心魂プロジェクトさんとコラボなども実現し、関係を強くさせてもらってます。

ようするにどういうことかというと、すでに病院という現場では、ちゃんとしたプロによるパフォーマンスが行われており、現場の保育士の方々などと力を合わせ、現場に必要な力をいれるということが起きております。
ご家族・保育士・指導員の方など、この活動を通じていろんな発見をしており、現場の活気も変わってきているようです。
もうすでに病院では、僕の目標とする、一流のパフォーマーが施設に訪れ現場の方と力を合わせ作り上げていく。
そして身近なものになっていく、ということが行われております。

あとは、教育の現場でもつくっていこうという教育者側の人が現れてくれればいいだけですね。
そのためにぐいぐい進めていきたく思ってます。

ですので、これからも音楽家として精進を続けながら、出会いを広げ、教育・福祉施設にアプローチをしていきたいと思います。

例えば想像します。

「おかあさぁぁん!今日も学校にすごい人きたよ!ジャズって知らなかったなぁ、おもしろいなぁ。音楽って色々あるね」
とか
「なんか、今日のジャズとかいう人たち、ヤバくね。なんか分かんないけど、アドリブらしいよ。ウケんだけどーー!」

などの会話が全国で行われるようにならないかなと。
もちろん、ジャズだけでなく、、、

僕が教育・福祉施設で演奏する経緯~過去の活動~

演奏だけでなく、いろいろしました。

前回書いた「もじゃけん」での活動は、保育所を中心に養護施設・老人ホーム・病院・学校などいろいろです。
中学校では授業形式で行い、その学校の校歌をアレンジしたら、「みんながよく知ってる曲を演奏しますよ」と言ったのに生徒はだれも分からず、「今のは校歌でした」と行った時の反応は最高でしたね。「え~、校歌ってこんなかっこよくもなるの!」と。

そこで僕は音楽が嫌いな子はなかなかいないのに、音楽の授業が嫌な子はけっこういると思いました。
そして、音楽教育に携わっていきたいと思うようになりました。
小学校の教育実習も音楽でし、森山威男さんなどを流したりしました。

また他のことも考えていました。
「もじゃけん」の活動の質をあげるために、誘われる音楽の仕事は始めることにしました。
それで出会ったのが、ダンサーとのコラボレーションでした。
前から音の視覚化には非常に興味があり、とても充実した活動ができました。

そこからヒントを得、演奏だけでなくいろんな専門家が施設に行くのは面白いのではないかと思うようになります。
Jazz研には、すでにプロで活躍してる人が複数いました(当時の千葉大はちょっと異常でしたが)。
他のサークルにもすごい人がいるはずだと思い探し始めます。

そこで、作った団体が「かつどう広場」という団体です。
要するにアーティスト派遣団体です。
ダブルダッチ・ジャグリング・ブレイクダンスなどの方々が登録しておりました。
これは、メンバーも学生だということもあり、実験的な感じでそこまで広めずに終わらせました。

こういうのを経て自分は本気で音楽教育界に入っていきたいと思いました。
「ちゃんとしたプロのによる体験を子ども達に」
を実現したいと思いました。
しかし、それは自分がしていくためにはどういう立場でやっていくか選ばなくてはなりません。
教師として、教育学の教授として、政治家として、ミュージシャンとして。
僕はやはり音楽が大好きで、またこれだけの教育の意識があるミュージシャンは少ないと思い、ミュージシャンを選びました。

ですので、僕がちゃんとしたミュージシャンにならなければいけません。
とても厳しい選択でした。
これも僕が海外に行く一歩を踏めた理由の一つにもなっております。

あと二つ、このテーマに関わる経歴があります。
通信制サポート校で、音楽講師として2年間働いたことと、海外に行くための貯金を作るために大分の過疎地域の医院で働いたことです。

サポート校は要するに通信高校の支部のようなものです。
そこにはいろいろな理由で来てる子がいて、不登校だったり、素行が悪くてや、仕事を他にしてるからなど人により全然違います。
そこでは家族・生徒に一生懸命向き合い、音楽を通しても様々な経験をしました。
そこでの出会いは、とても大切な宝物になってます。

医院は過疎地区の実際、都会との違いなど医療を通して地域性というものをとても学びました。
もちろん他にもいろいろありますが、ここもただ目の前の患者のことだけでなく、家族・地域・自治体など多くのものの関わりを一緒に考えていかなければならないことを学びました。

これら活動は全部海外に行く前にしたことです。
なんか本当にいろいろやってますね。

僕が教育・福祉施設で演奏する経緯~きっかけ~

実は僕は一度音楽で生活を志すのを一度やめております。

中学からプロになりたいと思い、いろいろあり、ようやく大学からドラムをしっかり始めました。
ですので入った当初Jazz研では周りがすでにうまい人ばかりで、僕は劣等感の塊でした。
しかし、がむしゃらにやっていき、必死に音楽と向き合っていったおかげで、うまくなったからではなく劣等感がなくなり、じゃあ自分が何をしたいのかも知るために一度やめて、他の世界を見てみようと思いました。

ですので、その時興味が出てきていていた医療と教育を見てみることにしました。
そしてその一つとして、児童相談所で働き始めます。

そのころから初めて、「やらなきゃという音楽」から解放され、自分の好きな音楽に向き合えた気がします。
ですので、児相のお風呂掃除中に大きな古時計をスウィングノリで歌いながら洗ったりしてましたね。

そうこうしていると僕が音楽できるということも保育士の先生方の間で知れ、児相で演奏してくれないかと言われました。
最初はもう音楽はやめたので、人前ではしないと言いましたが、ぜひと言われ、いろいろ考えたあげく一度やってみることになりました。
そこで、曲目を童謡やPopsを自分のやってきた音楽で初めて表現することになりましたが、これがおもしろく、しかもけっこういい感じにはまり、自分の純粋に好きな音楽は何でも自分が学んできたもので表現できることに気づきました。

その児相での演奏が好評だったようで、保育士の先生が「保育所でやってみない?」と言ってくださいました。
僕は音楽をやめた身で少し抵抗もありましたが、もうちょっといろいろ童謡・唱歌などを演奏したいなと思ったのと、お金をとって聴いてもらうという形じゃなけりゃいいかということで始めました。

しかし何回かした後、一緒にやっていたメンバーが就職しなければならなくなり、解散になりました。
ここは自分の転換期で、保育所での演奏が楽しかったですが、やりたい音楽の形でやっていけないなら、やめようと思ってました。
絶対にただの子どもウケの形ではやりたくありませんでした。
目星をつけていた当時ドクターに進んだばかりの先輩がやれなきゃこの活動はやめようと思ってましたが、話したらやりたいと言ってくれました。
さらにベーシストも始めたばかりだけど、とてもいい感じの子が見つかりました。
そして生まれたのが、知る人ぞ知る「もじゃけん」(モダンジャズ研究会の昔からある略語を平仮名にしただけ)というバンドです。

「もじゃけん」はたちまち保育所で広まり、演奏機会が増えていきました。
また保育所だけでなく、病院・学校・老人ホームなどいろいろなところからも演奏依頼が来るようになりました。

そして100件を超える演奏回数になるのですが、この活動を通してとても大きかったものは2つです。

1つは、良いものは良いとちゃんとなるということです。

Jazzは世間一般のイメージは「おしゃれ・難しい・古い」など特殊なものというのをよく聞きます。
しかし僕は特殊なものでなく、だれでも楽しめるけど固定観念が邪魔してると思っておりました。
ですので、子どもだろうと年配の方だろうと相手に合わせたものにするのではなく、自分たちがいいと思う演奏をしておりました。
例えば子ども達には難しいだろうから、ボーカル入れてアニメの流行曲をやって、一緒に歌えるのをたくさんいれてソロは間奏程度でなどなりがちです。
しかし、集中力が切れやすいことに少し注意すれば、フリーのイントロから始まる赤とんぼをバラード調でしっかりやってもちゃんと子ども達は感じてくれます。
当時の僕たち程度の力量でさえ、そのことを強く感じました。

もう1つは、音楽(芸術)の可能性です。

重症心身障がい者病棟で目からうろこのことばを教えてくださった方がいらっしゃいます。
その方は重症心身障がい児のお母さんで、演奏が終わったあと僕に駈け寄りお話してくださいました。

「普段、私は看護や日々の生活などに追われ、なかなか自分の子とゆっくり向き合う機会が気持ち的にもなかった。でも今日あなたたちのおかげで、子どもの手を握り話しかけながら、ゆっくり時間を過ごすことが久し振りにできた気がします。本当にありがとうございました」
と、

こちらこそありがとうございますですよ!
僕はただ演奏が楽しいかどうかとかぐらいにしか頭がいってませんでしたが、このような場があるということでそんなことにも役立つのだと初めて気づきました。
音楽がどう、だけでなく、音楽を通してできることが他にもたくさんあるんだと気づいた最初でした。

この2つが僕には大きく、やりたいことが定まっていきました。

超個人的な音楽体験~ドイツ~

さて、最後は僕の海外修行の最後の国、ドイツです。

ここも書けることはいっぱいありますね。
まず何で僕がここに行ったのかを書くと見えてくるものがあると思います。

僕はスウェーデンで一区切りがつき、次はどうしようかと考えていた時にとてもお世話になってる素晴らしいドラマーTerje Sundbyさんに相談しました。
そうするとTerjeさんは

「お前はあとはいろんな人と交流・演奏をし、音楽を広げていきなさい。今、ヨーロッパではベルリンに人が集まってきてて、とても面白いという話をよく聞く。そこに行ってみるといいんじゃないか」

とおっしゃいます。
そこで、ドイツをいろいろ調べたり、他のミュージシャンにも話を聞いたりしてもやはり面白そうだ。
中には「昔のニューヨークみたいで、何かが起こりそうな音楽都市だ!」と表現する人もしばしば。

ビザのこともあったから、ドイツの大学を調べて、そこの先生を調べるとびっくり!
ケルン大の当時筆頭教授になったJonas Burgwinkelを発見してしまう。
僕より若い?彼は怪物中の怪物!!
今まで見たことのないようなすんごいドラマーで、フリーもストレートアヘッドもメタルもビバップも垣根なく彼の演奏をしている。
もう、あははーん!と思い、ドイツに行くことを決めてしまいました。

そのあと調べると、やはりスウェーデンのように各都市で特色が少し違うらしい。
ケルンは、フリー色が少し強く、例えばフランクフルトはビバップ色からの流れが強めらしい。
ベルリンはやはり規模が一番大きく、悩んだ末、チャンスのより多いベルリンに行くことに決めました。

ベルリンは本当にいろんなシーンがありました。
音楽だけでなく、芸術全般に言えることで、いろんな人が集まっており、交流も盛ん。外国人も非常に多い。
そして何より、芸術に対して身近で、とても大事にされているようすがそこかしこからします。

例えば印象的なのは、はじめのころ道が不安でバスの使い方が分からなかったのでタクシーに乗ったら、若い運ちゃんが爆音でクラッシックを聴いてました。
ジャムセッションはジャズやファンクなどに限らずクラッシック・ダンス・美術などもあります。
クラッシックのストリートミュージシャンはいたるところにいます。

ですので、演奏のお店は超満員のところだらけです。
みんな、飲みに行く感覚でライブバーに行くんですね。

そしておもしろいのは、お客の反応です。
日本で「難しいよ」とか勝手に言われてそうなフリー色の強い演奏でも圧倒的な何かがあれば、お客は総立ち、拍手喝采の雨あられになります。
「何なんだ!君たちスゲー!」と、素直になるんです。
理論的に小難しい、ジャズとはこうだ、などどうでもよく、出てきたものが純粋に面白ければお客は喜んでくれます。
もちろんそればかりではありませんが、例えば僕の所属してる「元太平洋」なんて、ベルリンに行ったら超話題になるでしょうね。
音楽を枠にはめて聴いてないお客の多さにはびっくりしました。

またベルリンでは、Jazz(もしくは芸術)が観光産業の一部を大きく担っています。
あるJazzバーは、世界各国からの観光客が半数を占めます。
僕もいろんなお客と話しましたが、Jazzをいろいろ聴きに来るためだけにベルリンに来てる人もたくさんいました。

もちろんいいとこばかりでもないですし、昔はもっと賑わってたという方もいらっしゃいます。

ただ確実に言えることは、ベルリンではJazzは昔の音楽でなく、経済の一翼も担い、生活の一部になっている身近なものでもありました。

日本で常識的に言われてるようなJazzのことは、どこ吹く風という感じでしたね。