学園祭の思い出

僕は中学時代から音楽家を目指していましたが、一瞬演劇を目指したいと思ったことがあります。

僕の学校は男子校だったのもあり、体育祭・学園祭の熱の入れようが半端でありませんでした。
三日間ある学園祭は、誰がおもしろいかが、かなり高い価値基準となっておりましたが、学園祭の最高学年による演劇もとても大事にされておりました。

最後の学園祭準備もそろそろ始まるかなとなっていたある日、学年トップクラスの成績の2人が僕に話しかけてきました。

「坪井くん、演劇に参加しない?」

驚きました!
当時僕は学校で、成績はもちろん下の下でいわゆる落ちこぼれの不良と位置づけられてたと思います。
つまり彼らとはほとんど接点がなく、授業では茶化してうるさいだけですし、ガラもよくない。
むしろ彼らのような人たちに嫌われてると思っていました。

話を聞いてみると、二人が今回の脚本をオリジナルでつくって、その中にぜひ坪井にやってほしい役があると。
僕の在籍した四年間、演劇は映画や小説を脚本にしてやったものばかりでしたが、今回は彼らのオリジナル。
並々ならぬ情熱をもって挑んでいるものに僕を指名してくれたのです。
本当にうれしかったです。

内容は、過去と空想を行き来する農民ゴローの権力に立ち向かう話。
僕は空想の方の擬人化された本と、過去の農民の一人二役でした。
本の方の役は、おちゃらけたコメディの役で、農民はまじめな役でした。
農民はそんなにセリフも多くないちょい役ですので、インパクトのある本の役の方で抜擢してくれたんだなと思いました。
当時僕は、(最悪なことに)授業を茶化して笑わすことに情熱を注いでましたので、そのセンスを評価してくれたんだ、まじめな人たちもおもしろいと思ってくれてたんだと喜びました。

さて、学園祭準備が始まりました。
僕は学園祭の他のものにも企画者・出演者として多く携わっておりましたので、大忙し。
でも毎日行われる演劇の練習は新鮮でとても楽しかったです。
協力してくださる先生は、劇団も主宰しており本格的な練習でした。
毎回、発声から入り役作りの仕方、間の大切さなど丁寧に厳しく教えてくれました。

そして、学園祭が始まりました!
学園祭の最初の二日は僕の独壇場です。
毎日、ありとあらゆる企画に出演し、笑いを生むことができ充実しまくってました。

中でもうれしかったのは、男子校のミス岩田(女装コンテスト、どんだけウケるかですね)で僕は携わったのですが、中一からの各学年の子たちの自己PRを一緒に考えその子たちをプロデュースしたのが、ことごとく成功したことでした。
多くの子は出たくないけどみんな押し付けて出てるおとなしい子たちばかりでした。
しかし、彼らなりに考えて持ってきてて、どれもそのままではまずかったので、こうしたらどうかと話し合い一個ずつ改良していったものでした。
その中の子の何人かは、このミス岩田を機にクラスメイトに見直され、クラスでの扱いが変わったそうです。
このように最初の二日で僕は、笑いが価値基準である学園祭で成功をおさめることができました。

さて、最後は演劇。
この演劇は学園祭の締め的な位置にあり、バカ騒ぎだけでなくちゃんとした劇というものの面白さで締める最高の舞台でした。
役者を目指すのもいいなと思っていました。

さて、衣装は本の役では明るく奇抜な感じ。
髪の毛も銀色のスプレーで染め、端をカールさせたおちゃらけた感じ。
農民は江戸時代とかの百姓の感じ。
髪の毛を隠すためにほっかむりをつけました。
演劇にはかなり力がはいっておりますので、衣装もしっかりしてて早着替えのためのアシスタントもついておりました。

さて本番が始まりました。
反応はとてもよかったです。
本のシーンでは、二日間での成功の手伝いもあり、狙った笑いがしっかりハマり大盛り上がり!
農民のシーンでは、この劇のまじめなものがしっかり表現されていてピシッとした空気になります。
この台本のすばらしいのは、おちゃらけた世界にも暗示的なものがあり、主題のまじめなシーンに効いているところです。

そしていよいよクライマックス!
権力に立ち向かっていたゴローは、結局仲間だった農民たちに裏切られます。
代表を差し出せば許すという権力者の言葉に農民たちはゴローを差し出すことに決め、取り囲みます。

農民坪井「俺たちは悪くない!」
シーーーーーン、、、
しっかりと緊張感のある間を持ちます。

そこで事件が起こります。

一番前で見ていた中学生たちがざわざわしだしました。
「あれ、坪井じゃねえ?」
「ああ!坪井だ」

そうです、中学生たちは今まで坪井は本の役だけで農民はやってないと思っていたのです。
舞台は少し離れてますし、ほっかむりをかぶっていたのも合わさって バレてなかったのです。
笑いのシーンとまじめなシーンをビシッと決めてる素晴らしい役者でなく、バレてなかっただけなのです。

その間の後に放たれる劇の最後の言葉でもある自分のセリフ「死んでくれゴローーー!」は観客みんなのざわつきのなか放たれ、暗転。
「ほんとだ、坪井だ!」などのざわつきが止まらない中、予定通り幕は閉じられました。

僕はやはり何かを演じるのは向いていないんだなと思いました。
その何よりの問題は声だとあらためて気づきなおしました。

農民は暗いシーンがほとんどなので、張る系の声でないです。
でも最後のシーンは、農民の搾り出た声、、、張ります。
そうすると僕の高い声は特徴を強く放ちます!!
「俺たちは悪くない!!」by boy soprano
それに中学生たちは気づいたのです!

僕は指名してくれた二人に謝るとともに役者を目指すのをやめました。
僕は、そのままの自分を表現する声を使わないドラムをしようと、、、

はい、みなさま!
坪井の前で「高い」「裏返ってる」禁句です。
坪井の高いはそれが普通で、裏返ってないんです!
それが表なんです!
俺は、わるくない、、、、by boy soprano

関東進出!

もうご存知の方も多いと思いますが、自分は大分県別府市出身です。
この大好きな故郷を離れたのは、大学で千葉に来た時です。
ですので、こっちに来て驚くことは多かったです。

まずは電車。
都会の電車は超長い!
♪でーんしゃは、続く―よ。どーこまーでもー♪
大分は基本2両でしたよ。

あと、各停?快速?通勤快速?準急?
なんじゃそりゃー!ですよ。
自分、普通と特急しか知らんっす。
快速は、最初普通の切符だけで乗れないと思っていたので、しばらくは東京に行くにも各停で行ってました。

そして、電車の本数の多いこと!
別府大分間は基本1時間に2本です。
だけどこれは大分のほうがいいかも。
だって、朝の7時8分の電車にはステキなあの子と同じ電車、などの楽しみがありました。
男子校の自分には、これくらい許してほしいっす。

ただ今思うと大変なのは、終電。
当時は10時40分が最終。
そりゃ、飲み屋の閉まるのも早くなりますよ。

次には、ファミレス。
ファミレスってものがいろいろあることにびっくり!
あたしは、ジョイフルしか知らんっす。
ドリンクバーなんて、知らなかったので最初に先輩に
「お前、ドリンクバーは?」
って聞かれたとき、「なぜ、わざわざアイスを勧める?」と、驚いたものです。
ただ残念だったのは、チェーン店が普及してるせいでしょうか、安くてうまい定食屋などを地元出身の子に聞いてもなかなか答えてくれる人がいなかったです。

カップラーメンも全然違いました。
うまかっちゃんがない!サンポー焼豚もない!ペヤングってなんじゃい!
うまかっちゃんは、ようやく見つけたと思ったら、パッケージが黄色でなくピンク!
はっきり申し上げましょう、「ピンク、気持ち悪いっす」
ある日、どん兵衛が西と東で味が違うと聞いたので送ってもらいました。
送ってもらった方には小っちゃく(W)と、千葉で買ったのは(E)と書かれてます。
東京と静岡の子にも食べ比べてもらったのですが、(W)のほうがうまかったですね。
少し甘みがあるんです。

チェーン店で言えば、電気屋。
録音用のマイクがほしいので、先輩にどこに売ってるか聞いたら、千葉にヨドバシカメラがあるからそこでと。
さっそくメモをしました。
「淀橋カメラ」
むしろ難しい漢字を知ってるねと、大ウケしました。

さて、何といっても関東に来て一番苦労したのは言葉です。
僕は中学から大分市に行っていたので、そんなに方言は強く無いほうでしたが、同級生に言われたのは、言ってることはわかるけど、怒ってるように思うことがあると。
「お前、何しょんの?」とか言われたら、悪いことしたかなとドキッとすると。
さあ、男子校出身の自分は女性と話すのにも慣れてもいないので、「こりゃ、いけん」と思い、方言は大事にしたいけど、丁寧にしゃべることを心がけます。
さあ、そうするとどうなったと思います。
「あたし、元気よ」
「そうね、そう思うわ」
「それ、食べていいんよ」
そうです、オネエ言葉みたいになってしまったのです!

当時は丸刈りに髭でした。
ですので、汚い格好した男子校出身の髭坊主がオネエ言葉でしゃべる、最高でしょ?
しかも常に裏返ってるような甲高い声の坪井、完璧です!

都会は怖いところ、あの純朴な少年は、もういないのであります。 

おす!おら、応援団

僕はよく返事に「おす!」というのを使います。
何故かと申しますと、中高一貫男子高時代に応援団に入っていて、その時のくせが染みついてしまっちゃっているのです。

別に応援団といっても、うちの学校は部活がむちゃくちゃ弱く応援しに行くような舞台はないですいし、体育祭で披露するだけのものでした。
ただ、普通の体育祭のためだけの応援団とは少し違い、つながりが異常に強く、団員であることの誇りがとても高かったです。

中学3年生から入れるようになるのですが、3年の団員徴集のときはその学年の調子にのってるやつ、活きのよさそうなやつが8人、半強制的に選ばれます。
ですので、先輩方も怖かっこいい方々ばかりで、不良ぶってるガキはすぐに憧れてしまうのですね。
選ばれた瞬間は、人前でそんなの嫌だな、と思うのですが、僕もすぐに団員として誇りを持つようになっておりました。

そして、最初にならうのが返事の仕方です。

おす!!

応援団の活動中は、返事は「おす!」
「はい」や「いいえ」は関係ありません。
とにかく「おす!」

団長「お前ら、声が出てねえやねえか!」
団員一同「おーっす!」

団長「お前ら、やる気ねーんか!」
団員一同「おーっす!」

言葉の内容でなく、声の大きさで表すという斬新な表現方法でした。
ですので、

先輩「お前、援団をなめてんのか!」
坪井「おーすっ!」(そんなことありません!)
先輩「あ、なめてんのね。ボコられたいってことね」
坪井「おーーーすっ!」(お許しください!)
蹴られまくったあと
坪井「おーーすっ!」(申し訳ございませんでした!)

と、一つの言葉に、いろいろな思いを込める表現法を学びます。
もちろん、どう受け取るかは相手次第という、表現と相手の関係性も学べます。

このように援団にはまりまくった自分たちは、美的感覚も気合と根性が中心になります。
例えば、先輩に
「援団の声は、まず喉から血を吐いてからじゃあ」
と言われると、仲間たちの中で
「俺、口の中が血の味がするぜ」
というワード(さりげなく言う)がはやり、唾を吐いて血が混ざってるのを見せ「やるじゃねえか」と、納得しあうという奇行が当たり前になります。

一番下っ端の時代は、とにかく粋がるだけでした。
しかし、後輩ができてくると少し変わってきます。
あのかっこよかった先輩のようになりたい!という意識が芽生えてきます。

僕がかっこいいと思った先輩は、周りのちゃんといいところ、がんばってるところを認めてくれる先輩でした。
そして、だめなところはしっかり教えてくれる人でした。
その人たちは、演武もかっこいいし、言ってること見ているとこも、とても的確でした。

なんでだろうと、思いました。

しかし、答えは簡単だったんです。
その人たちは、自分が目指すかっこいいに向かって努力しまくり、また下っ端の時に僕と同じようにそういう先輩方に同じように教えてもらってるんです。
中3の下っ端時代は、ただひたすらやってきましたが、後輩ができるとよく分かりました。

精神的にも肉体的にも限界ギリギリに追い込まれ、そこで出てくる自分の弱さ。
でも援団が好きで、粋がり、がんばるやつらは、とてもかわいかったです。

たぶんこの応援団での3年間が僕の音楽をやっていく姿勢にとても強く関わってると思います。
音楽の世界には目指したくなるかっこいい先輩(知ってる限り90歳以上で先を見続けてる方がいます)がいっぱいいるし、ガツガツくる音楽大好きで必死な後輩がたくさんいますもんね。

あたし、負けない。
かっこよくあり続けるぞ!

そして、今日もどこかで気合を入れて、おす!と返事をしているのでしょう。

ご趣味は、、、

書くことをいろいろすっごい迷ってしまい、書いては消して話題を変え、を何回か繰り返したので、とりあえずスッと書けることを書くことにします。

僕の趣味は、読み物全般であります。
漫画はもちろん、小説など様々です。
その中の一つに児童文学があります。

出会いは学生時代でした。
4年生くらいのころ、国語教育の授業で、新しく本を一冊読んで、それを紹介するチラシをつくりなさいと言われました。
何にしようかなと図書館に行って、いろいろ見ましたがピンとこず、試しに絵本を手に取ってみました。
そこで、たまたま手に取ったのが「The giving tree(邦題:大きな木)」でした。

当時の英語力で読める程度の文でしたが、とても詩的で読む人・境遇によって変化する内容の素晴らしいものでした。
絵はとてもシンプルで、それがまた文と合っており、1ページ1ページが、文字の配置なども含めて素晴らしい作品にも感じられました。

内容は割愛しますが、これをきっかけにShel Silversteinさんの作品を集め、Leo Lionni(スイミーをご存知の方も多いはず)などに飛び、絵本だけでなく、MOMOやThe lord of the ringsなどいわゆる児童文学と呼ばれるもの全般に飛んでいきます。
もちろん日本のものでも好きなものもあり、昔話系はもちろん冒険者や守り人シリーズなど、時代・国籍を問わず大好きです。

特に一冊をあげるとすると、ゲド戦記は何度も読みました。
でも1から3までです。
4はショックを受け、途中でやめ、5は読んでません。
後で調べたら、3と4の間には大きな開きがあり、やはり別ものでした。
お願いだから、ゲドを使って書かないでほしかった、、、

まあ、それはさておき、出会いとは本当におもしろいですね。
僕は後日、The giving treeの日本語訳のほうを探して、読んでみました。
しかし、絵と文字の一体感はそれでは感じられず、原本の感動を持っていた僕にはとても味気なく見えてしまいました。
悲しかったのは、文だけでなく、絵の中の文字(木に刻まれた文字)までが、普通のフォントで訳されてました。
原文で木の代名詞がSheになっていたので、どう訳すだろうと見たかっただけなのに、、、

たぶん僕は日本語訳のほうを手に取っていたら、児童文学との出会いは遅れていたでしょう。
訳すというのは、とても大変な作業というのは重々承知ですので、それに文句があるわけではないです。
ただ、作品というものはちょっとしたようなことでも、それの持つ輝きや凄さを失うことが多々あるんだと知った大きな出会いでした。
絵本というものは、絵と文字も含めて一つの作品にしてるんだと感心した次第であります。

The giving treeが感動で、僕にいわゆる児童文学というものの目を開かせてくれたように、音楽で新たな楽しみを開かせれるよう精進していきたいものです!

*後日の書き足し
村上春樹盤で新しく、原本に近いような訳で再発刊、絵の中の書体も変更されてるそうです。

しかし、いけません。
僕が手に取った大きな理由は、裏表紙です。
作者の写真がとてもインパクトがありました、いったいこんな顔の人がどんな絵本を書くんだろうと。
僕も当時、丸刈りで髭、たぶん見た目は怖かったかもしれません。

読む前と読んだ後で、作者の顔がどう見えるか。
読む前に作者の顔を見て、どう想像したか。
読んだ後、作者の顔を見ながら、どう思うか。

それを読み手に試してくれます。
そんな意図があったかは知りませんが、それだけで「泣いた赤鬼」の話のようなを体験できます。
(他の作品を知ってる僕には、シェルおじさんは意図的にのせてるでしょう、と思います)

僕は見た目をよくいろいろと利用します。
その話はいつか書きたいな。

ぜひまだ読んでない方は、作者の顔を先に見ることをお勧めいたします。

ブログで初めての告知、、、

大分を中心に九州ツアーをいたします!
ぜひぜひ皆様、お越しください。
Tre fargerのCD発売記念ツアーです、よろしくお願いします!
Tre farger http://www.trefarger.com/

まゆたま http://mayutamarider.blog.fc2.com/

7月1日 熊本 CIB http://cib-co.jp/
18時 開場 19時半 開演
2500円+1 ドリンク オーダー
お問い合わせ 096-355-1001

7月3日 福岡 大宰府 Jazz工房Nishimura http://www5.plala.or.jp/jazz-factory/
18時 開場 19時半 開演
予約 3500円(ドリンク込み)当日 4000円(ドリンク込み)
お問い合わせ TEL 092-406-0923

7月4日 大分 別府 なかむら珈琲店
http://tabelog.com/oita/A4402/A440202/44000032/
18時 開場 19時 開演
予約 3000円(ドリンク込み)当日 3500円(ドリンク込み)
お問い合わせ 090-9684-9804

7月5日 大分 国見 涛音寮 http://tabelog.com/oita/A4403/A440302/44000546/
14時 開場 15時 開演
2000円 高校生以下無料
お問い合わせ 0978-82-1328

箸休め的な話、、、かも

さて、海外音楽の話の4つ中2つを書いたので、間にまったく違う話を書きます。

医療的な話ですが、「お下品ですわ!」という話が嫌いな方は、読まずに飛ばしてください。

わたくしはですね、大学2年生の時にパスタ屋のバイトをしてました。

料理補助と皿洗いでずっと立ちっぱなしでした。

ドラマーは座り仕事だったので、立っているのは苦手でした。

そしたらびっくり!2・3か月たったある日、小をしていると色がこげ茶なのです!!

「なんだこれは!」とびっくりしたけど、しばらくしたら治まったので、ほっときました。

そして、またバイトに行くとこげ茶になります。

「おかしいぞ?」思ったけど、また次の日には普通の黄色です。

と、思ったらポロッと何か赤い塊のようなものがでました。

黄+赤=こげ茶?「もしや、血尿?」と、思いましたが、痛みはありません。

ありのままを父に話すと、どうやら血尿で、病院に行くことになりました。

そうすると、尿に血が混じってるようです。

でもバイトした時だけ、激しくこげ茶です。

いろいろ調べたけど原因は分からず、お医者が言うには急に立ち仕事をはじめると内臓が下がって出ることもあると。

バイトの後だけとも一致するので、それっきりになりバイトを辞めたあとは出なくなりました。

その後、前にも書きましたが、胆のう結石で入院し、手術後の尿管に苦しめられました。

でも血尿はでませんでしたが、おもしろかったのは尿管を抜いて最初の小の時、空気が出ました!

まるで、おならのようにブビーと。

「すげーっ!いてーっ!」と、苦し楽しみました。

そして、音楽生活の悪戦苦闘は続き、ビデオ屋でアルバイトを始めました。

そしたらやっぱり立ち仕事が多く、血尿が出ました。

当時、彼女もいたので、たぶんあれだけど、もしかしてがあって、うつす病気でもまずいと思い、再度病院に行きました。

どうせ、何もないだろうと思ってましたが、やはり先生も特に何かはないね、とおっしゃいました。

「よかった」と、安心してたら先生が、

「今日の午後空いてる?」

と、

先生は女医さんで、ドキドキの展開です。

「はい、何にもないっすけど」

と、答えると

「今日は検査も入ってなくて、午後時間あるから、念のため膀胱をカメラで検査しよう!」

ドキドキの展開です!(もちろん少女漫画的展開でないですよ、彼女もいましたし、僕は絶対に浮気をしません!)

そう、カメラです!

尿道に突っ込むんす!あのつらいのが再びっす!

抜いてもしばらく痛みと残尿感のようなものが抜けなかった嫌な感覚、再来です。

またおならも出ます!

げんなりしましたが、やるべきことはやるべきと覚悟を決めました。

そしたら、さらにつらいことが待っておりました。

あの、なんていうんでしょう?分娩椅子?テレビで見た出産のときに女性が座る椅子が用意されてます。

僕はそこに座らされ、ズボンを脱ぎ、カーテンのようなもので下半身だけ遮られ、股を開かされました。

もう生む準備万端です!

そして、下半身側には40代くらいの女医さんと午前にはいなかった若い看護婦さんまで補佐に来ております。

もう恥ずかしいったらなんの、僕の見えない向こう側でゴソゴソ。

一生懸命お仕事をされてるのですが、見えないせいもあり、辱めを受けてるだけに感じてしまいます。

ですので、僕は思いました。

「もう、お嫁にいけない、、、」

けっきょく病気は見つからずよかったのですが、おならも出ましたし、尿道の強い違和感もしばらくしっかりありました。

しかも、あたし、お嫁に行けない身になってしまいました。

みなさん、健康が一番でございます!

僕のばあちゃん

僕はいつも家族にとても助けられてます。

その中で今回は、ばあちゃんのことを書いてみたいと思います。

ばあちゃんは僕が高校3年生の時から一緒に住むようになりました。

とてもやさしい人で、僕は大好きでよく冗談も言い合ってました。

ちょっとおもしろいのは、アメリカで生まれたらしく3歳くらいまで向こうにいたそうです。

その時の名残が少し残っていて、ハンカチ→ハンカチーフ、プリン→プディングと言ってました。
中でも驚いたのはウイスキーを「フィスキー」と言ってたことです。

そんなばあちゃんに救われた一言があります。

やっぱり音楽を仕事にしていくというのはとても大変で、それを目指すのはとても心配なことです。

今でも心配です。

周りの僕の大事な人はとても心配してくれます。

とてもありがたいことです。

しかし、ばあちゃんは違いました。

ばあちゃんはいつも僕に「洋、あんたは自分がしたいと思うことを思いっきりやりなさい」と言ってくれてました。

何をしてるとか、今どんな感じだとかは一切聞かずに、ただただ信頼してくれてました。
僕の中高時代のハチャメチャさとかも良く知ってるのに(1年以上連続で毎月親が学校に呼び出されてた時期もあったり、、、恥ずかしいことです)。

本当にこの100パーセントの信頼は、幾度となく僕を救ってくれました。

祖母という立場だからできる100パーセントの信頼だったり、孫だからこそ素直にそう思えた関係性かもしれません。

でもこの信頼されることのありがたみを知ってる僕は、出会う子どもたちに信頼を伝えるようにしております。

そんな大事なことを教えてくれたばあちゃんは、もう死んで何年も経ちます。

海外に行く準備で、実家にしばらく住んだときがあります。

僕は基本的に人に対して自信が無かったりするので、こういうことは言えませんが、ばあちゃんの遺影の前ではこう言えました。

「僕と一緒に住みたかっただろうな、長生きしてほしかったな」

そして、ばあちゃんは、今でも僕を救ってくれています。

ありがとう

鉄板ギャグから見える文化の違い

やっぱり海外に住んでると地元の方からよく質問されるのは「日本は恋しくない?」です。
僕はあんまり恋しくなかったですね。
修行中の身ですし、この国でもっと吸収したいと前しか見ていませんでしたから。
ですので、「そんなに恋しくないよ、、、でも日本のご飯を食べに帰りたくなるかな」と答えておりました。
たぶん皆さんもこの気持ちは分かっていただけるのではないかと思います。
僕がカナダに行き、3・4か月たったある日、日本から輸入したどん兵衛を見つけました。
そこは日本の物を売ってる日本の方がしてるスーパーで、コンビニで売ってるようなおにぎりも売ってました!
僕は喜んで買ってそこで食べました。
そしたら、訳も分からず涙があふれ、号泣いたしました。
初めて自分ががんばってること疲れてることに気づき、驚きました。
皆さん、出汁は泣かせますよ。
ところが、スウェーデンでは「そんなに恋しくないよ、、、でも日本のご飯を食べに帰りたくなるかな」が鉄板ギャグでした!!
もうみんなにウケにウケました。
「日本にご飯を食べに帰りたいだって!!ヒロ~、お前はなんておもしろいんだ!」と、です。
もうカナダの話をつけ足そうものなら、ゲラゲラがとまりません。
どういうことかと自分の分析では、もちろん全員ではないですが、食文化の意識がスウェーデンでは日本に比べるとかなり薄いようです。
来て最初に驚いたのは、スウェーデンでおすすめ料理を聞くと大勢の人が頭を悩まし、「んー、、、ポテトかな?」
それ食材じゃないすか!!!
しかもそれはヨーロッパ全般じゃない?
もちろんスウェーデンもいろいろあるんですよ。
肉団子料理、ジャムの使い方、鮭料理(これは専門店に連れて行ってもらったりしました、最高でした!)、ベリー系などなど。
しかし、あまり食の意識が強い人は少ないですね。(お酒のことはまた別で書きます)
ただ菜食主義はかなり浸透しています、特に若い人。
ですので、見た目は全くソーセージや肉団子なのに野菜でできたものの種類が半端なくありました。(口の悪いやつはフェイク料理と呼んでました)
学校の給食も菜食主義の方のためのコーナーがありましたし、菜食主義専門のレストランもありました。(むっちゃおいしかったです)
僕が若い人と接することが多かったのも大きい、そんなに一事を万事とってほしくないですが、外食の種類の豊富さは日本は異常です。
すばらしいですよね。
あ、そうそう僕のカナダ人の友達は「カナダは『美味しいとこ、連れてってやるよ』といって連れてってくれるとこは、量が多いところだ」といっておりました。
世界は、おもしろいです。

2014年を思い出す ②

4月半ばから関東に拠点を移した自分はドキドキでした。

なんかヨーロッパ帰りのドラマーがいるらしいけど、どんなもんなん?と見られるだろうと。しかもうまいドラマーはいっぱいいるのですから。

ですから、演奏のチャンスでは毎回「一撃必殺!」を心がけやっていきました。

「あ、こんな感じね」って思われたら、もう次はないですし、出し切ってダメなら精進していくしかないのですから。

’14の核になったのは間違いなく山田さんとおみちゃんを中心に千葉時代の方です。

おかげで、いろいろなステキな方と出会え、しかも現在4つの素晴らしいレギュラーもさせてもらってます。

特にこの2人は僕を待っててくれて、大分にもベルリンにも来てくれましたし、出国の準備に追われ、音楽的に落ち込んでた時もいろいろ協力してくれました。

感謝、感謝でございます。

そんな2人とのアルバムも出るのでむちゃくちゃ楽しみです。

今年は’14年に出会いからさらに広がっていくのを楽しみにしております。

僕は基本チキンですから、常に「一撃必殺!」を心がけ失敗を怖れる失敗をしないように精進していきます。

みなさま、今年もよろしくお願いします。

次回は全然変えて、スウェーデンでの住まいのことを書こうかな、、、

2014年を思い出す ①

初めてのブログ書き込み、どきどきですな。
今回は音楽寄りになります。

2014年を振り返ってみます。

丁度、一年前のこのころはヨーロッパとのつながりもでき、そろそろ
拠点をもってやっていきたいなと思っていた時期でした。

これからの選択の大きな決め手の一つを思い出します。

Kenneth Dahl Knudsenの、「ヒロ、日本でツアーをいっしょにしないか?」

の一言です。

Kennethはベルリンで売れっ子のミュージシャンで、あとで分かったんですが
Johnathan Blakeなどすごいプレイヤーと録音してる超強力世界的プレイヤー
です。

Kennethは、実はスウェーデン時代とても懇意に面倒を見てくれてたTerje Sundbyさんが紹介してくれたプレイヤーでした。
(去年Mr.TerjeはPalle Daniellsonと2枚目になるライブレコーディングを発売し
たといえばわかる方もいるでしょう)

このようにKennethは知ってたんですが、なかなか機会がなく年末に行ったセッションで初めて彼の前で演奏しました。

そこで、こう言ってくれたんです。

もうあたしは興奮しましたよ。

「もちろーーーーん!!!」

この一言はとても大きく、日本を拠点に世界とつながっていく!と決めた大きなものでした。
そして帰国を決めたら、給与のいいレギュラーの話や面白い演奏の誘いをもらえ、ギャーってなりました。

次回は、続きということで、日本に帰ってきてからを書きたいな。