キーパーの思い出

前回の投稿から半年たってますね。
ネタはたくさんあるのですが、書く余裕がなかったです。

ところで、自分は小学校4年生からサッカーを始めました。
同級生がすでに2人入っており、1人はすでに5・6年生中心の1部チームに、もう1人は3・4年生中心の2部のキャプテンでした。
僕は入ったばかりですが、少しずつ頭角を現すことができレギュラーにすぐになりました。

そして、5年生の終わりごろにある出来事が起こります。
自分は2部チームを卒業したくらいだったのですが、2部チームのキーパーが試合中に故障をし、たまたま代役で2部の助っ人キーパーを命じられました。
相手は2部といってもかなりの強豪で、もう試合にならないくらいの点差が開いており、半分消化試合だったのですが、いいようにやられまくってるのが悔しくて、僕は意気込んで出ました。

ですので、相手のオフェンスがディフェンスを振り切ってゴールに来る瞬間に僕は飛び出して、ガツンと体全体で敵を止めました。
ベンチからは「おーー!」と歓声が起き、ナイスプレーと大盛り上がりでした。
それで有頂天になった僕は、その後も何度か飛び出しては、体で止め、点を入れさせない活躍をしました。

しかし、最後にとても大事なことが起きました。
ディフェンスを突破するのが楽勝の相手は、このままではいけないと対策を練ったのです。
単純なことです、僕が飛び出して来たら隣にもう一人来させ、パスをしたのです。
見事にやられました。
たまたま敵のパスが乱れ、もたつき焦った敵が、がら空きのゴールへのシュートをミスったおかげで点は取られませんでした。
そして、そのまま試合は終わりました。

失点を防いだ僕には、称賛の嵐。
でも僕の中では最後の1プレー、僕が飛び出したせいで、ゴールががら空きになってしまった、飛び出すのが必ずしも正解でない、が強く残りました。
しかし、監督は僕の勢いの良い飛び出しに注目し、キーパーの素質がある、これからキーパーをしないかと言われました。
そのころ、選ぶ権利など無いと思っていた小学生は、そのままキーパーになります。
疑問をちゃんと解決できないまま。

それからの僕はあの最後の失敗が残ったまま。
ですので、何を教えられてもそこを解決できてないので、全く自信が持てません。
手で持って蹴るキーパーキックが、そんなに飛ばなかったのも自信の無さに拍車をかけました。
試合に出ると失敗を怖れ迷ってばかり、その怖れがさらに失敗を呼んでおりました。

結局、1年かけてどんどんキーパーが嫌になり、最後に一番勇気を振り絞ったのは「キーパーをやめさせてください」を監督に伝えることでした。

この経験はとても役に立っており、特に僕が子どもと接する際に思い出させます。
いったいどこに原因があるのか。
自信をつけるためには何を解決しないといけないのか。
自分が他に注目しすぎ、この子の持っているものを見間違えてないか。
ちゃんと相手の気持ちを聞きだせてるか、などを気をつけさせてくれます。

たぶん、僕は最初の時にあの飛び出しの失敗をちゃんと解決してたら、全然違ったと思います。
僕はキーパーをしていたころ悩んでいるので他でも失敗し、それを怒られていましたが原因はそこにないので、全然改善しませんでした。
最初の小さな疑問がそのあとの悪循環を生み、原因からどんどん遠ざかり、一番重いやめるという手段を選ぶ、ただ飛び出しのポイントを整理すればよかっただけなのに。

この経験のおかげで、児童相談所やサポート校でハッとさせられ、もう一度向き合うことができたと思います。

 

おでは男だ、男だど、、、?

僕はけっこういろんなところで、教師系の仕事をしました。
千葉でも大分でも。
どれもステキな思い出があり、いろいろ書きたいのですが、特定できないように書くのはなかなか難しいですね。

さて、僕はあるところで教えていたのですが、そこのトップがけっこうひどいお方で、いろいろトラブルを起こしておりました。
そしたらある日、一人生徒が泣きながらあたしのところにやってくるではありませんか!
その子は普段、涙を全く見せることはなく一生懸命がんばってるし、前向きで素直な子だったのでびっくりしました。
事情をきいてみるとそのトップの方の授業で、トラブルがあったと。

さて、坪井はちょうど時間も空いていたし、僕が事情を聞くことになり、その方のところに参りました。
そうすると、その方の言ってることは極悪でした。
(ここらへんはかなり曖昧にします、あまり人の悪いことをこのブログでは書きたくないのと特定の可能性を減らすためです)

とにかく、いろいろな深い事情があり、坪井は怒りの頂点へ!

さあ、大変!
向こうも感情的になってしまいましたので、話を一時切り上げ、とりあえず時間を置こうと思い、去りました。
戻って、その子と話をして安心してもらい、新しい担当の先生に引き継いでもらい、一段落させました。
そして、自分は癒されに他の子たちのところへ見学に行きました。

さて、前置きが長かったですが、ここからが書きたいことであります。

自分が見学をしていると一人の先生が僕のところへ来ました。
そのA先生は中間管理職のような立場で、いつもそのトップとの間で苦労している僕と同じ年くらいの方です。
プライベートでも仲が良く、子ども達へのこれからも一緒に熱く語り合うような仲でした。

A先生が言うには、トップの方が僕と話をしたいと呼んでいると。

それは僕には無理でした。
表面上の怒りは収めてても中は爆発寸前、たぶんその方の顔を見たら話しどころで終わりそうにないくらいです。
今の状態では無理と思いました。
しかし、かわいそうなのは使いをさせられたA先生。
今、話をしてもこじれるだけなのは分かってるし、かといって話をしようと言ってるのには正当性もあり、呼ぶのを断るわけにもいきません。

そこで、この先生に迷惑をかけてはいけないと思い、坪井はひらめきました!
「よし、今、話しても無駄だから話をしたくないと言われ、それでも説得したが坪井に逃げられた、ということにしましょう」

自分がいたところは、一階の一番奥の部屋で、出ていくにはどうしても事務室の前を通っていかないといけないので、そのトップの方の前を通ります。
それでは万が一があるので、違うところから出ていかなきゃなりません。

そこで、「じゃあね」と、窓から出ていき、車に乗って帰りました。

僕はちゃんとバカですから、この話は「友に迷惑をかけないため、いろいろなことを覚悟で、窓から颯爽と去る男らしきエピソード」と思っておりました。
もちろんその日の仕事も終えてましたし、その後に子ども達のフォローなどもちゃんとしましたので。

まあ、とにかくその後いろいろありましたが、数年後のカナダから帰った時に当時のこの仕事先の先生方が坪井のために飲み会を開いてくれました。
もちろんトップの方には内緒で。
みなさん、本当にステキな方で、A先生は坪井の話を聞いて勉強したほうが良いとそこの新しい先生も何人か連れてきてました。

そしてA先生が僕をその新先生たちに紹介をしてくれました。
「すごい先生だったけど、窓から出ていくという奇行もするおもしろい人です!」
えーーー、あれは面白エピソードなの?
僕は「男らしいエピソードと思ってたのに、、、」
というと、
「窓から出ていくなんて、バカでしょ!ぐふふ。」
となり、みんなで笑って盛り上がりました。

楽しい飲み会でした。

受験勉強(大学入試)~結果~

ちょっと開いてしまいましたね、一回途中まで書いたのが消えたりして今日になっちゃいました。

さて、結果です!
大分県最下層の学力だった僕がどうだったかというと、、、、

運よく千葉大に受かったんですが、そんなことは結果の重要なことではないんです。
もちろん千葉大にいろいろあったけど結局行って、何にも代え難い経験や出会いに大感謝でありますが、そういう意味ではありません。

受験というものを一年弱ですが、やると言ってやりきった結果、何を学び、何を得たのかが重要なのです!

自分に対しての一番の結果は自信を得たことでした。

僕が自分の直接したいことではなく必要だと思い、こうやると決めてある程度の期間をかけ、やりとげることができた初めてのものでした。
前に書いた通りセンターが一番の目標でしたから、点数がどうであれ、センターの初日のすがすがしさったらなかったですね。
中2くらいから本当にまったく勉強してこなかったやつが、高3の4月に受験をすると言ってから、毎日一生懸命自分なりに格闘し続け、その時までに自分でやれる精いっぱいを持って、目標の舞台に臨めたのです!
こんなうれしく、すがすがしいことは、生まれて初めてでした。
点数がどうなるかはあまり重要じゃなかったです、運など他の要素である程度上下しますし。

いろいろなことがあったけど、迷わず、言い訳をせずセンターまで必死にする!ということをやりきれた結果は、自分に嘘をつかず小さいけれど自分にはとても重要な純粋な自信のかけらを手に入れました。

周りの人たちに対しての一番の結果は、信頼の入り口を得たことです。

特に家族は、中学で最悪になりはじめても僕のことをずっと支えてくれ、向き合い続けてくれていましたが、やはり僕はうまく表現もできず、何度も裏切り、そして傷つけてきました。
しかし、僕を信じるという小さな土台をたった一個ですが、初めて自分から渡せました。
今まではそんな土台もないのにずっと信じて向き合ってくれていました。
それにようやく気づき、感謝しかありませんでした。

そして、ただ受験をするといっても一人ではできません。
家族はもちろん、友達や先生などいろいろな人に本当にいろいろな力を貸してもらえたから、やりきることができたのでした。
そして、なんと僕もそんな力を分けれる一人だったんです!
知らなかったです!あたしのことはあたしだけのことと思ってました。
バカですね。
それにようやく気づくことができました。

さあ、中学・高校生などのみなさん!
別に受験をしろ、なんて勧めていません。
もし、自分に自信が無かったり、どうしていいか分からなかったり、つらかったり、もうだめだと思ったりした時、新しくてもちっちゃくてもいい、何か目標を作ってある程度期間をかけて、最低でも自分だけには嘘をつかず(これ、超重要!)やりきってみるのも一つの方法ですよ。
もちろん何度失敗してもいいです、またやってみればいいんだから。
僕は受験を初めてやり遂げられたと思えたことだと書いてますよね。
それまでに、いろんなことで自分に嘘をついたりごまかしたり、何百回も失敗してます。
休みながらでいいんですよ、無理は自分に嘘をつかないとは違います。
ただ何でもいいので、「ああ、僕は自分なりにやれることをこれまでにやりきったなぁ」と、胸を張って自分に言える日を迎えてほしいです。
本当にそのころには自分も周りも全てが変わってるから。
何を得るかは、それぞれ違うだろうけど、自分にとって最初には思いもしなかった大切なものに出会えますよ!
無理は絶対しちゃだめ!!自分なりでいいんですよ!!誰かは自分の基準に一ミリも関係ないっす!!

受験はその何かの中では、日本では現在まだ超お得でお便利ざます。
例えば、「どこどこ大学!すげーー!!」、とかいう意味不明な評価を付加してくれるんです。
「お前、よく一年やりきったな!すげーー!!」に比べたら、上のは全く意味ないでしょ?
でも今の日本ではまだ利用はできるんで、お得っす。
大学という場所もけっこうステキな場所にできます。
だから、特にこれってのがない人にはとりあえず死ぬ気で勉強やってみちゃったら?とは勧めますね。

とりあえず例えば受験なら、どこどこ大学目指してください。
受かろうと落ちようと、そこまで自分なりにやりきれた結果を手にしてください。

僕は、そんな一生懸命向かってる人たちを心から応援しますよ。
僕もそんな君と同じように今も目標に向かって進んでます。
仲間だね!

ちなみに僕はセンターでうまくいかず落ちたりなどで大学に行ってなかったら(当初から行く気は全くなかったです)、家を出、バイトしながらドラムを学び、お金を貯めて渡米しようと思ってました。
そうなってたら、どうなってたでしょうね。
確実なことは今と同じく、「俺、受験勉強頑張ったな」という自信に助けられながら、一生懸命やってるでしょう。

受験勉強(大学入試)~実践編~

さて、大分県でもほぼ最下位と分かった僕は作戦を練ります。
どう攻略をすればよいか、、、

有名私立にするか、国立を狙うか、、、
私立の場合は、科目を絞れる代わりに試験の難易度が高いイメージ。
国立はセンターを受けなければいけない。

ここで決め手になったのは、むちゃくちゃ難しい問題が出て誰もほとんど解けず、勉強まるっきりしなかったやつが早稲田に通ったという噂。
要するに私立の場合、問題によるという賭けになることがある、ということです。
やったらやっただけというのが反映されやすいのは、センター試験。
ですので、今までの積み重ねもないですし、自分は迷わず国立を選びました。

そして、2次試験の対策までの時間が取れないだろうと踏んだ私は、センター重視、2次があっても先生が好きだったので授業は聞いていた国語のみのところに搾ります。
ですので、第一志望は横浜国立大学経営学部(センターのみ)、第二志望東京学芸大学中学校国語(センター+2次国語)、第三志望千葉大学小学校国語(センター+後期は面接と小論文)というおかしな組み合わせになりました。
ここに受かれば文句はないだろうと。

さて、全科目一からやりなおしです!
前回書いたように英語と数学は中学校の参考書からです。
では、ここで受験の重要なポイントを書きます。

1、モチベーションを保つ
はっきり言って、受験は大変です。とにかくめげずに続けていくことが重要です!
僕はまず兄にもらった眼鏡のフレームで伊達メガネを用意しました。
「俺、勉強マンです!」の格好から入ります。
また、家にこもってしません。
本気で勉強する友達と図書館に行ったり(始まってから終わるまで口はききません)
唯一行っていた知り合いの英語の個人塾の日は塾の始まる何時間も前に行って一人でします。
帰ったら、親が起きてる23時くらいまでしかしません。

これらはどういうことかというと、「俺、勉強してるよ」アピールをして自己満足するためです。
「がんばってんな」の一言がモチベーションをとても保ってくれます。
単語はいらない紙にびっちり書いて覚えます。
そして、こんだけやったぞと満足しながら、単語が書かれた紙を捨てまくります。

ぜったい途中で成績が上がらなかったりなどの不安、迫ってくる焦りなどでモチベーションが落ち、意味不明な考え事で効率が落ちます。
でもやることは決まってるし、もくもくとやるしかないので、とにかく気持ちを保つ工夫を編み出しましょう。

2、問題集などは薄めのものを選ぶ
これは、一つは何冊も終わらせたという自己満足を得るためです。
厚いものは、最後までするのはきついです。
あと重要なのは、薄いものは問題が絞られてるということ。
ですので、違う問題集で違ったアプローチで同じような問題に何回も出会います!
要するに頻出・重要ポイントが染み込むということです。
発展や応用は、そこが完璧になってからのほうが理解も深まります。

ですので、例えば「頻出英単語1600語」は捨てましょう!
絶対できませんし、繰り返すのに何時間かかるんですか?
全く基礎がなかった僕でさえ電車の行き帰りに600語を使っていただけです。
あとは、いろんな中文・長文を読みまくればいいんです。
そうすると、知らない単語の予想力もつく。よくある言い回しも何回も出てくる。読む速さも上がるなど、一石何鳥か分からないくらいの効果があります。

この2つが超重要です!
もちろん細かいのはいろいろありますが、要するに心折れずにひたすら重要なところを繰り返しやれ!ですかね。

これに気づかせてくれたのが、周りの友達と先生です。
例えば生物の先生は本当に優秀で、先生が手作りでつくった薄い冊子、それだけをもとにあとは問題集で問われ方を学ぶだけで僕はセンター試験で96点でした(今でも間違えた一問は、問題が間違ってると思ってます)

どうやりきるかをうまくやれば、県最下位のやつがセンターで結果を8割程度出すくらいは余裕でできます。
センター試験は対策をやったぶんだけ反映しやすいようにできてるという意味では、かなり優秀なテストです。
この情報をやる前に知ることができ、何をやればよいかを先生や周りの生徒から教えてもらい、信じてやりきっただけです。

実際の毎日はどんな感じかというと、起きてる間は、休憩や気分転換を大事にしながらほとんど勉強です。
睡眠はしっかり、途中短いうたた寝は入れるのもありです。

さて、次回はまとめということで、結果と受験というものについて思うことを書きます。

受験勉強(大学入試)~動機~

さて、前回に引き続き自分の恥を忍んで告白をいたします。
何故書くのかは少し前回書きましたが、中高から大学受験の流れを見て現役中学・高校生に知ってもらいたいことがあるからです。
お願いですから、武勇伝(そんな大した話もないですが)とか自慢とか捉えたりしないでほしいです。

本題に入ります。
前回書いたように僕は最下位で入学しました。
そのあと、半年くらいは勉強をしましたが部活に明け暮れたのもあり、まったく勉強をしなくなります。
授業のスピード、量についていけない(ついていく気力もない)のもありました。

ですので、中一の秋にはまた最下位あたりをうろうろしてます。

うちの学校は進学校でしたが、中高一貫で高校入試がなく勉強しないやつは本当にしてなく、できないやつは高校入試のふるいがない分、本当にできなかったです。
もちろんあたしもこの一員です。
ただやってるやつは、先生方も優秀ですし本当にできます!

中学三年生で、音楽を志したのもあり、勉強はいらないとなり、高校も行く気がなかったです。
ここは親との死闘がたくさんありました。
本当に最悪で、特に高校時代は学校をやめたいのもあり人に迷惑をかけるようなことをたくさんし、さんざん親を困らせていました。

とうとう高校二年生の終わりにドラマーになると家を出ます。
このアホは、福岡に行きお金を貯めてからアメリカに行こうと企てますが、結局見つかり兄にボコボコにされます。
ここで、ようやく親がこのボケナスに真剣に向き合ってくれてることに気づきます。
そして、今までのさんざん好き勝手やってきたけじめをつけようと思いました。
その表現方法に大学受験をし、大学を受からすという方法を取りました。
他に方法を知らないバカは、それでドラムをどんだけ本気でしたいのか、やらなければならない嫌なことから逃げない、などを証明しようとしました。

これが高校三年生の四月の話です。

この前、帰国したばかりのころ中高時代の友達と卒業以来再開し、話になって思い出したのですが、「いきなり大学受験を始めたと言いだして坪井が取り出したのが、中学の参考書だった」と笑い話が盛り上がりました。

みなさん、僕は決して特別頭が良いとかでありません。
ただ僕が恵まれてたのは、周りの同級生・先生と「頭が良く無いと大学はうからない」「今からやっても遅い」という先入観が全くなかったからです。
「坪井が特別ではない」というのを信じれるかどうかが、まず入り口です。
これが超重要です!!!!

さあ、その入り口に立った僕の最初の模試の結果はどうだったかというと模試を受けた大分の高校生6000強の中、6000番台でした。
そりゃそうでしょう、中学参考書が友達になったばかり状態ですもんね。

次回はただ「大学を受からす」というのが目標の自分がどういう戦略をとり、実践していったかを書きます。

受験勉強(中学入試)

ちょっと受験のことを書きたいと思います。

僕は中学受験をしております。
小学校の5年生から、大手の塾に通うようになりました。
これは別に受験するためとかでなく、家族同士で仲のよかった子が通ってたので一緒に通う?とむしろ付き合いでとその子との行き帰りを楽しむものでした。
ですので、塾で出る宿題はもちろん勉強はほとんどやったことがありませんでした。

その友達たちは結構勉強をしていたようで、かなり成績がよく塾でもトップのクラス、全国の模試でも名前があがるような子でした。
僕はもちろん最下位のクラスで、帰り道に当時引退した千代の富士の記者会見のモノマネをしたりして騒ぐのが楽しかったです。

そして小学6年生になると中学をどうするかという話になってきます。
模試では毎回第3希望くらいまで、志望校を書くのですが他県の進学校は全く無理の判定でしたし、大分の私立もがんばれば可能性があるかもくらいの判定でしたので、まったく考えておりませんでした。

当時、別府の公立中学校は男子は丸刈りでしたので、一度試しに丸刈りにしてみようと思い、早くも丸刈りをしてしまうほど公立に行く準備は万端でした。
このあと、あたしの天パは出現しだします。

しかし、6年生の秋に事件が起きます。

秋に遠足ということで、山登りに行きました。
そこには隣の小学校も来ておりました。
そしたら、何やら女の子たちが隣の小学校の子にバカにされたと話を聞きました。
当時、粋がっていた僕は「なにー!」とちょっかいかけてきたやつらのところに文句を言いに行きます。
すると話が大きくなり、「文句があるなら放課後かかってこいや」ということになりました。
そこで、僕らは遠足が終わった後に殴り込みに行くことになりました。

向こうは実際にくるとは思ってなかったようで、びっくりしてました。
向こうは仲間を連れてくるから待っとけと言い、待っていたらリーダー格がやってきました。
先生も一緒にきました。
そして、先生の仲裁のおかげでその場は収まりました。
しかし、リーダー格の子は僕に目を付け、僕とやりあいたいと息巻いており、あたしもかかってこいやとなっており、そこだけはうやむやになって終わりました。

この事件自体は大きなものではないのですが、実はこのリーダー格の子が問題でした。
この子の姉は、暴走族に入っており僕がいく中学でかなり幅を利かせていることを後で聞きます。
僕に目をつけているリーダー格の子ともその姉とも同じ中学になってしまいます。
危険です!
それもあってか、同じ小学校の同級生ともそのころくらいからうまくいかないようになってました。
塾に通う時の友達との方が仲良くなっていきました。
冬休みが終わったころには、大分の私立に行きたいなと思うようになっておりました。

親はまさか僕が私立に行きたいなんて思ってなかったので、びっくり!
「どんだけお金がかかると思ってるの!」です。
しかし、とりあえず受けてから考えようとなり、受験対策を始めます。

さて、大分の当時唯一の私立を受験することになりました。
しかし、何をしていいか分からずとりあえず過去問を買いました。
それが試験の一週間前、、、

普通、過去問は解くものというより、傾向を知りどのような勉強をすればよいかを知るものです。
しかし、まったくわからない僕はとりあえず解きます。
算数で、分からない問題があり、父に相談したら小学生特有の問題過ぎて、父もうまい解き方が分からない。
そこで、僕らはタッグを組み一週間かけてその問題に取り組みました!
何とも意味のない受験勉強はそうして終わりました。
でも父とのいい思い出は残りました!

けっきょく試験はあまりできなかったですが、塾などで聞いたことのあるものもあったので何とか解きました。
社会の問題で「この道路は国道何号線か?」という問題なんて、名前のついてる道路はジュウゴウセン、しか知らなかったので書いたら合ってたとかいうレベルです。

そしたら奇跡的に補欠30番に入りました!
もともと倍率が低かったのもありますし、付属中に人が流れたのもあり奇跡が起こりました。
しかし、何とか補欠に入りました。

補欠の有効期間は2週間で、それまでに連絡がなければ落ちたということでした。

しかし、期限最終日にとうとう連絡がきました!
もうそのころには親は覚悟しててくれており、即支払いをし岩田学園に入学することになりました。

坪井の中学の危機は、こうして逃れることになりました。
公立に行ってたらどうなってたでしょうね、ボコられて悲惨な中学生活か奮闘して悪街道まっしぐらしか思いつかなかったです。

ちなみに入学式の日に今年は補欠30番までとりましたと聞きました!
ああ、10号線を思いつかなかったら落ちていたでしょう。
ありがとう10号線!他に246号線や16号線などいっぱいなくてよかった!

しかし、このあと僕が奮起して成績を上げていくのかというと全く逆です!
素行も悪くなり、親が毎月呼び出される2年間もあります。
この前、親に改めて言いましたが、よく見捨てず最後まで向き合ってくれたと、、、

ここら辺は次回の受験(大学入試)で少し触れますね。
本当はそれを今の受験生に見てもらいたいために恥を忍んで書きました。
ああ、情けない、、、

僕が教育・福祉施設で演奏をする経緯~これから~

僕は一年位前まで、カナダ・スウェーンデン・ドイツにいました。

僕が海外生活の中心にスウェーデンを選んだ理由の一つは、福祉大国と呼ばれてる国の実際はどうなのかを見たいっていうものです。
そして前回書いたように、ちゃんとしたミュージシャンが学校で授業をするという目標をミュージシャンとして実現させていくためには、海外でも修業をしたかったのです。

前にも書いたので詳しくは書きませんが、海外生活で本当にいいなと思ったのは、音楽はもちろん芸術が身近で、敬意が払われており、国によって守られてる部分も多くある点です。
特にスウェーデンでは、学校教育の現場に芸術家(以外にもいろんな専門家に入ってほしい)が入ることにより、そのものの理解を深め、それが身近にもなり、あらゆる視野が広がる一助になり、その分野の保護にも繋がっておりました。

日本では学習指導要領だと、いろんな音楽をふれさせる、とか載っております。
しかし例えば、クラシックを中心に学んできた学校の先生が、ジャズを教えられない人がほとんどでしょうし、知ってる風に思って日本人だけの勝手なイメージを植え付けられては非常に僕らにとって困ります。
先生は教育の専門家ですから、やりっぱなしにならないように専門家と子ども達を繋ぐ重要な役割を担ってほしい。
ですので、専門家が教育現場に入っていくという活動はガンガン進めていきたいです。

ところで、僕が帰国した後、大きな出会いがありました。
「心魂プロジェクト」という団体さんです。

僕が前述の「もじゃけん」時代から付き合いがあり、「かつどう広場」の一員でもあった、保育士の小野澤さんから、帰国後すぐに連絡がありました。
一つは重症心身障がい者病棟で、ステキなランチ会をするため、バックミュージックでステキな空間を作ってくれないかと。
これは、喜んでしました。
もう一つは、元劇団四季の方などが中心に立ち上げたばかりの団体が今度病院で演奏するから、来ないかと。
僕は、その団体の方がどうというよりも、患者さんの反応をゆっくり見る機会は今まであまりなかったので、それを見るいい機会でもあるから行こうと思いました。

しかし、実際心魂プロジェクトさんを見てびっくり!すばらしいパフォーマーの方々で、ちゃんとしたプロのミュージカルでした。
正直、こんなレベルの人が病院にいらっしゃるとは思いませんでした。
その後、小野澤さんの力もあり、僕は心魂プロジェクトさんとコラボなども実現し、関係を強くさせてもらってます。

ようするにどういうことかというと、すでに病院という現場では、ちゃんとしたプロによるパフォーマンスが行われており、現場の保育士の方々などと力を合わせ、現場に必要な力をいれるということが起きております。
ご家族・保育士・指導員の方など、この活動を通じていろんな発見をしており、現場の活気も変わってきているようです。
もうすでに病院では、僕の目標とする、一流のパフォーマーが施設に訪れ現場の方と力を合わせ作り上げていく。
そして身近なものになっていく、ということが行われております。

あとは、教育の現場でもつくっていこうという教育者側の人が現れてくれればいいだけですね。
そのためにぐいぐい進めていきたく思ってます。

ですので、これからも音楽家として精進を続けながら、出会いを広げ、教育・福祉施設にアプローチをしていきたいと思います。

例えば想像します。

「おかあさぁぁん!今日も学校にすごい人きたよ!ジャズって知らなかったなぁ、おもしろいなぁ。音楽って色々あるね」
とか
「なんか、今日のジャズとかいう人たち、ヤバくね。なんか分かんないけど、アドリブらしいよ。ウケんだけどーー!」

などの会話が全国で行われるようにならないかなと。
もちろん、ジャズだけでなく、、、

僕が教育・福祉施設で演奏する経緯~過去の活動~

演奏だけでなく、いろいろしました。

前回書いた「もじゃけん」での活動は、保育所を中心に養護施設・老人ホーム・病院・学校などいろいろです。
中学校では授業形式で行い、その学校の校歌をアレンジしたら、「みんながよく知ってる曲を演奏しますよ」と言ったのに生徒はだれも分からず、「今のは校歌でした」と行った時の反応は最高でしたね。「え~、校歌ってこんなかっこよくもなるの!」と。

そこで僕は音楽が嫌いな子はなかなかいないのに、音楽の授業が嫌な子はけっこういると思いました。
そして、音楽教育に携わっていきたいと思うようになりました。
小学校の教育実習も音楽でし、森山威男さんなどを流したりしました。

また他のことも考えていました。
「もじゃけん」の活動の質をあげるために、誘われる音楽の仕事は始めることにしました。
それで出会ったのが、ダンサーとのコラボレーションでした。
前から音の視覚化には非常に興味があり、とても充実した活動ができました。

そこからヒントを得、演奏だけでなくいろんな専門家が施設に行くのは面白いのではないかと思うようになります。
Jazz研には、すでにプロで活躍してる人が複数いました(当時の千葉大はちょっと異常でしたが)。
他のサークルにもすごい人がいるはずだと思い探し始めます。

そこで、作った団体が「かつどう広場」という団体です。
要するにアーティスト派遣団体です。
ダブルダッチ・ジャグリング・ブレイクダンスなどの方々が登録しておりました。
これは、メンバーも学生だということもあり、実験的な感じでそこまで広めずに終わらせました。

こういうのを経て自分は本気で音楽教育界に入っていきたいと思いました。
「ちゃんとしたプロのによる体験を子ども達に」
を実現したいと思いました。
しかし、それは自分がしていくためにはどういう立場でやっていくか選ばなくてはなりません。
教師として、教育学の教授として、政治家として、ミュージシャンとして。
僕はやはり音楽が大好きで、またこれだけの教育の意識があるミュージシャンは少ないと思い、ミュージシャンを選びました。

ですので、僕がちゃんとしたミュージシャンにならなければいけません。
とても厳しい選択でした。
これも僕が海外に行く一歩を踏めた理由の一つにもなっております。

あと二つ、このテーマに関わる経歴があります。
通信制サポート校で、音楽講師として2年間働いたことと、海外に行くための貯金を作るために大分の過疎地域の医院で働いたことです。

サポート校は要するに通信高校の支部のようなものです。
そこにはいろいろな理由で来てる子がいて、不登校だったり、素行が悪くてや、仕事を他にしてるからなど人により全然違います。
そこでは家族・生徒に一生懸命向き合い、音楽を通しても様々な経験をしました。
そこでの出会いは、とても大切な宝物になってます。

医院は過疎地区の実際、都会との違いなど医療を通して地域性というものをとても学びました。
もちろん他にもいろいろありますが、ここもただ目の前の患者のことだけでなく、家族・地域・自治体など多くのものの関わりを一緒に考えていかなければならないことを学びました。

これら活動は全部海外に行く前にしたことです。
なんか本当にいろいろやってますね。

僕が教育・福祉施設で演奏する経緯~きっかけ~

実は僕は一度音楽で生活を志すのを一度やめております。

中学からプロになりたいと思い、いろいろあり、ようやく大学からドラムをしっかり始めました。
ですので入った当初Jazz研では周りがすでにうまい人ばかりで、僕は劣等感の塊でした。
しかし、がむしゃらにやっていき、必死に音楽と向き合っていったおかげで、うまくなったからではなく劣等感がなくなり、じゃあ自分が何をしたいのかも知るために一度やめて、他の世界を見てみようと思いました。

ですので、その時興味が出てきていていた医療と教育を見てみることにしました。
そしてその一つとして、児童相談所で働き始めます。

そのころから初めて、「やらなきゃという音楽」から解放され、自分の好きな音楽に向き合えた気がします。
ですので、児相のお風呂掃除中に大きな古時計をスウィングノリで歌いながら洗ったりしてましたね。

そうこうしていると僕が音楽できるということも保育士の先生方の間で知れ、児相で演奏してくれないかと言われました。
最初はもう音楽はやめたので、人前ではしないと言いましたが、ぜひと言われ、いろいろ考えたあげく一度やってみることになりました。
そこで、曲目を童謡やPopsを自分のやってきた音楽で初めて表現することになりましたが、これがおもしろく、しかもけっこういい感じにはまり、自分の純粋に好きな音楽は何でも自分が学んできたもので表現できることに気づきました。

その児相での演奏が好評だったようで、保育士の先生が「保育所でやってみない?」と言ってくださいました。
僕は音楽をやめた身で少し抵抗もありましたが、もうちょっといろいろ童謡・唱歌などを演奏したいなと思ったのと、お金をとって聴いてもらうという形じゃなけりゃいいかということで始めました。

しかし何回かした後、一緒にやっていたメンバーが就職しなければならなくなり、解散になりました。
ここは自分の転換期で、保育所での演奏が楽しかったですが、やりたい音楽の形でやっていけないなら、やめようと思ってました。
絶対にただの子どもウケの形ではやりたくありませんでした。
目星をつけていた当時ドクターに進んだばかりの先輩がやれなきゃこの活動はやめようと思ってましたが、話したらやりたいと言ってくれました。
さらにベーシストも始めたばかりだけど、とてもいい感じの子が見つかりました。
そして生まれたのが、知る人ぞ知る「もじゃけん」(モダンジャズ研究会の昔からある略語を平仮名にしただけ)というバンドです。

「もじゃけん」はたちまち保育所で広まり、演奏機会が増えていきました。
また保育所だけでなく、病院・学校・老人ホームなどいろいろなところからも演奏依頼が来るようになりました。

そして100件を超える演奏回数になるのですが、この活動を通してとても大きかったものは2つです。

1つは、良いものは良いとちゃんとなるということです。

Jazzは世間一般のイメージは「おしゃれ・難しい・古い」など特殊なものというのをよく聞きます。
しかし僕は特殊なものでなく、だれでも楽しめるけど固定観念が邪魔してると思っておりました。
ですので、子どもだろうと年配の方だろうと相手に合わせたものにするのではなく、自分たちがいいと思う演奏をしておりました。
例えば子ども達には難しいだろうから、ボーカル入れてアニメの流行曲をやって、一緒に歌えるのをたくさんいれてソロは間奏程度でなどなりがちです。
しかし、集中力が切れやすいことに少し注意すれば、フリーのイントロから始まる赤とんぼをバラード調でしっかりやってもちゃんと子ども達は感じてくれます。
当時の僕たち程度の力量でさえ、そのことを強く感じました。

もう1つは、音楽(芸術)の可能性です。

重症心身障がい者病棟で目からうろこのことばを教えてくださった方がいらっしゃいます。
その方は重症心身障がい児のお母さんで、演奏が終わったあと僕に駈け寄りお話してくださいました。

「普段、私は看護や日々の生活などに追われ、なかなか自分の子とゆっくり向き合う機会が気持ち的にもなかった。でも今日あなたたちのおかげで、子どもの手を握り話しかけながら、ゆっくり時間を過ごすことが久し振りにできた気がします。本当にありがとうございました」
と、

こちらこそありがとうございますですよ!
僕はただ演奏が楽しいかどうかとかぐらいにしか頭がいってませんでしたが、このような場があるということでそんなことにも役立つのだと初めて気づきました。
音楽がどう、だけでなく、音楽を通してできることが他にもたくさんあるんだと気づいた最初でした。

この2つが僕には大きく、やりたいことが定まっていきました。

バカだなぁと思いつつ、好きなとこ

僕はですね、今は自分で自分を褒めていくしかないよねぇ、としています。
最近本当にいろいろあって、疲れてるので思い出し自分褒めをしよう!と思います。

さて、僕が学生の時、教育学の授業の単位認定の試験です。

「2題、出します。それぞれ50点満点で、自分の思う点数を書きなさい」

と、言われました。

1問目は、教育に関するまじめな問題です。
忘れましたが、「現代教育における問題点を1つ挙げ、その改善法をこたえよ」のような自分の意見を書く問題でした。

2問目は、「”タヌキ”、”カネ”、”ヒト”、を使って自由に書きなさい」でした。

この先生は、教育界のけっこうな重鎮らしいですが、名物先生らしく、こういう問題を出してくるという話でした。
こういう先生が僕は大好きで、本当にこんな試験を出すんだと感心したものです。
だから、バカな僕は逆に挑みかかってしまいます。

1問目は、A3の解答用紙の3分の2くらいで、思うことを書きました。
そして、これは自分の意見ですので、50点中50点と書きました。

そこで、2問目です。
はてはて、どうしたものか。何とか一矢報いたいと考えました。

そこで、書いた僕の答えはこれでした。

「タヌキとヒトは、関係あるのカネ?」

アホですね。
今思うと本当にアホだなと思いますが、当時は一番短いし、教育学の試験でこのような問題を出すことへの皮肉にもなる。
「これをどう評価するかで、逆に君の器を計ってやる!」と偉そうに0点と書いて、出しに行きました。

先生は受け取ると、パッと見てフフーンとした顔をし、

「君はこの点数だと60点に届かなくて不可になる(単位が取れない)から、点数を書きなおしなさい」
と言い、

「いえ。それなら、それでいいです」
と答え、教室を後にしました。

バカの極地ですね。めんどくさすぎるやつだとも思います。
そんなバカに先生は「優」をくれました。

僕は、バカ極まりなく恥ずかしくもありますが、自分でこういうバカは好きになっちゃうなとも思ってしまいます。
実は、実際にそういう子に出くわしました。

僕が通信制サポート校で、先生をしてる時、大学ごときで「僕らは無理だ」とあきらめてる子たちの価値観を変えるために大学で実際に教育学の授業で出た問題として、この2題目をさせました。
単位認定の試験とはどういうものか、など脅しをつけてです。

そしたら、ほとんどの子は大学の問題だからと思い、一生懸命書いてました。
もちろん、どれも一生懸命で、それぞれの性格が出てました。

しかし、その中の1人の女の子が、僕とほぼ同じ答えを書いてました。
驚きましたね。

その子は、一般的にいう超不良の子で、確かにとがりまくってました。
やっぱり、バカだなと思いつつ、好きだなぁと思いました。

あぁ、小生意気な答えを書けた自分を褒めるつもりが、一生懸命に過ごしたサポート校で、出会えた大好きな生徒たちを思い出し、元気になりました。
みんな、一生懸命だったなぁ。

話が、途中から変わるのも良いことのようです。